太陽の光がさんさんと照りつける8月の日曜日,私は公園の野球場で少年達にノックをしていた。その公園は木々が生い茂り,蝉しぐれがその森から鳴り響いていた。その木々の下の日陰から一人の青年がこちらをじっと見つめていた。私はその男が何となく気になった。そして良く見てみるとなんと須藤直也だった。私は思わず直也!』と叫んだ。その後すぐに私は心の中で“いったい私は彼を何年待ち続けた事になったのだろうか”と思った。……
医師になって4年目の事である。都内の病院の耳鼻咽喉科医長である先輩の女性医師が産休,育休の為,私は約4ヶ月間だけ彼女と交代でその病院に勤務医として働くことになった。
そこで一人の男性と知り合った。彼の名前は,沼田武雄であった。彼は視力障害にて眼科を受診したところ,眼科から脳神経外科に回され診断は蝶形洞嚢胞(副鼻腔の一つの蝶形洞に膿が貯留して膨張)による視神経圧迫であった。
脳外科の医師は耳鼻科の私に相談にきたところ,私が医師としての経験が少ないのではないかと疑い,脳外科で手術をする事にした。
術後,彼の視力は回復しなかった。脳外科の医師は,耳鼻咽喉科での再手術を私に依頼してきた。しかし手術室での耳鼻咽喉科の手術の枠が無かった為,私は脳外科の手術の枠を借りようと思ったが,それに対しては断られた。“出来るだけ早く再手術をしてほしい”と言う患者の希望で,私は外来で手術をする事にした。
私は慎重に鼻内より中甲介を折って,蝶形洞膿胞壁に鉗子を到着させ,その壁の一部を切除し,中の膿汁を排出させた。
翌日には,患者の視力は回復し始めた。その後,脳外科医からは反省の言葉も聞けず,ただ“その患者の病室を耳鼻咽喉科に移して欲しい”という注文を付けられた。患者も“早く退院したい”と言う希望があり,私は退院させて外来で経過観察をする事に決めた。
通院経過観察中に,私は患者すなわち沼田武雄と,たまたま同区内に住んでいるという事もあって,非常に親しくなっていった。
そして数年後のある日,彼から『先生,野球好きですか』と問われた。
『嫌いではないですよ』と私は答えた。
『実は,私は少年野球の監督をしているのですが,もし良かったら一緒に子供達に野球を教えてみませんか』
『大学時代はサッカーをやっていたから,私が子供に野球を教えられるでしょうかね』
『大丈夫ですよ』と彼に云われるままに,私はコーチとして月に1〜2回,日曜日に少年達に野球を教えることになった。その野球チームは文京区にあり“茗荷谷ギャングスターズ”という名前であった。その部員の一人の少年,すなわち“須藤直也”に私は出会うことになった。
直也の父親・賢一は,東京の国立大学医学部を卒業して,心臓外科医として活躍していた。母親・智子は、東京の私立大学の医学部を卒業して眼科に入局した。そして,彼女は自分の兄(賢一と同じ医学部の卒業)からの紹介で4才年上の賢一と知り合って,1年後に結婚した。そして翌年直也が生まれた。
直也が2才の時,賢一のハーバード大学への留学の為,家族3人はアメリカのボストンに5年間住むことになった。
智子の父親は,通産省の官僚から日本を代表する電気メーカーに天下り,その当時,アメリカの支社長をしていて,妻と伴にニューヨークに住んでいた。直也にとって,祖父母,両親に囲まれて人生の中で最も幸せな時だった。
彼が7才の時に家族は日本に帰国した。そして,彼が小学校3年生の時に母親は眼科医に復帰する為,研修を再開した。父親は千葉の国立病院の心臓外科部長として,単身赴任し,日曜日だけ家に戻ってきた。
直也は平日夕方,母親が帰宅するまで一人で家で過ごしていた。学校でも途中転校生ということで,まだなかなかクラスメートとは馴染めなかった。日曜日は,両親は疲れていて,直也を何処にも連れて行ってやれなかった。そこで,母親は託児所のような感覚で,直也が唯一好きだった野球をやらせる為,茗荷谷ギャングスターズに入部させた。
この野球部は昭和40年創立の少年軟式野球チームで,小学校5,6年生の高学年で1チーム,4年生以下の低学年で1チームが構成され,約50人位部員がいた。この様なチームは文京区に現在16チーム存在し,1つの小学校が母体となって結成される事が多かったが,我が部は,国立大学付属小学校,私立大学付属小学校,地元の公立小学校などの子供達による混成チームだった。そして高学年チームに監督が一人(沼田武雄),低学年チームにも監督が一人(山岸峰夫)がいた。この二人は中学時代バッテリーを組んでいて,卒業後ほとんど連絡を付け合うことが無く,その後20数年経って,各々の子供が野球をするのでこの部に入部させたところ,偶然再会することになり,子供達が卒業しても二人はこの部に残って野球の指導を始めた。
その他,コーチ達が私を含めて8人いた。彼等の仕事は電気屋,大工,硝子屋,パチンコ経営者,クリーニング屋,印刷屋など多種に渡っていて,本当に野球と子供が大好きな中年男達だった。彼等は仕事のない日曜,祭日に交代で監督を補佐していた。
須藤直也は小学校3年生の時,ギャングスターズに入部した。私は初めて彼とキャッチボールをした時,決して上手だとは思わなかった。足も遅かった。しかし,彼は野球の練習を非常に楽しくやっていた。だが直也の母親は野球に協力的ではなく,一度も練習を見にきたことはなかった。
試合で地方に行く時,昼食の弁当が必要なこともあった。その時に,直也はよく弁当を忘れてくることがあった。
『僕,お腹がすかないからいいんだよ』直也は言っていた。
私は『遠慮するな,俺のを食べろ』と言って,彼に食べさせた。私は弁当が必要なときは直也の分まで持って行くことにした。そして,しばらくすると日曜日は塾のテストが優先となって,彼は月に一度位しか練習に来られなくなった。母親は直也に,常にテストの成績が偏差値60以上なら,野球の練習に行くことを許可した。
直也は元来頭の良い子供であった。幼少時よりアメリカで生活した為か,すでに英語は流暢に話すことが出来た。その他の教科も成績は優秀で,母親との約束を守ることが出来た。そして,2学期からは練習にも再び参加出来るようになり,テストは月曜日の夕方受験することを許された。しかし,直也の楽しい野球の時間はそう長くは続かなかった。
直也が5年生になった時,塾の講師が母親に『直也君,野球をやめてもっと勉強に専念すれば,偏差値65以上も夢ではありませんよ。俗に言う御三家(麻布,武蔵,開成)も,合格の可能性が有りますよ』と告げた。母親は即座に野球を辞めさせる決意をした。
母親・智子が私の所へやってきた。『直也を5月一杯で退部させてください』
『直也は納得しているのですか?お母さん約束が違いますよ。塾のテストで偏差値60以上なら野球を続けていいって言ってましたよね』
『それはそうでしたけれども,あの子には次の目標があるのだから』
『ちょっと待って下さい。彼はこの一年で野球が上手になってきていますよ』
『でも,いつも補欠じゃないですか。あの子は常に父親の様に,社会のトップを歩かなければならないのです。劣等感など味あわせたくないわ』
『お母さん,退部は7月まで待って下さい。6月から夏期大会の文京区の予選が始まります。直也も試合に出られるかもしれませんよ。一度でいいから彼の出場する試合を見にきてくれませんか?』
『分かりました。とりあえず7月まで退部は延期しましょう。その試合を見てからまた考えます』と智子は私に告げて去って行った。
6月の中旬より,夏期大会の第1回戦が始まった。我々はどんどん勝ち進んで,7月第3日曜日に遂に決勝を迎えた。残念ながら直也はまだ一度も試合に出場できてなかった。決勝の前日,私は監督に『明日,どこかで直也を出場させてほしい』と頼んだ。そして,智子に『お母さん,明日の決勝戦に直也は必ず出場しますから,是非応援に来てください』と私は電話をした。
決勝当日,監督は私に何の理由も聞かず,直也を9番レフトで出場させた。レギュラーのメンバー全員が驚いていたが,一番驚いていたのは直也自身だった。
試合が開始され,好ゲームが続いていた。しかし,直也は3打数3振だった。試合は7回の表まで6対5で1点敗けていた。少年野球は,7回が最終回という規定であった。7回の裏,ツーアウトまで追い込まれていた。最後の一人の打者が,直也だった。誰もがピンチヒッターを予想していたが,監督はそのまま直也をバッターボックスに向わせた。私は観客席を見回した。しかし,彼の母親の姿は結局見つからなかった。『直也!何が何でも出塁しろ』と私は怒鳴った。彼もまた,必死にバッターボックスに立っていた。相手の投手が1ストライク2ボールの後に投げた球が,直也の体にあたった。彼はデッドボールで1塁に出塁した。次の打者は1番,岩田だった。相手の投手はまだ動揺して第1球目を暴投し,直也は2塁に進んだ。岩田は2球目を打ってレフト前のヒットとした。直也は必死に走ってホームに突っ込んだ。タイミングは絶対アウトだった。しかし,直也の必死のヘッドスライディングにて,捕手は落球してしまった。審判は,“アウト”のポーズから“セーフ”の判定に変えた。大歓声が起こった。その間に岩田は2塁に進んでいた。直也は顔を上げて我々の方を見た。彼は鼻血を出しながら泣いていた。おそらく痛いというよりは,嬉しくて泣いているのだろうと私は思った。2番打者の小谷がセンター前ヒットを打って,我々は勝利をおさめ都大会への出場権を得る事ができた。
試合後,監督が全員を集めて『素晴らしい試合を見せてくれてありがとう。皆,よく頑張ったね。特に直也の勇気とファイトに感動したよ。例年通り一週間後から2泊3日で合宿が始まるから,都大会に向けて頑張ろう』と言った。全員,大騒ぎになって帰って行った。一人で帰宅しようとする直也に『今日の試合の事をお母さんに報告するんだよ,絶対にね。そして一週間後の日曜日,上野駅に必ず来るんだよ。待っているからね』と言って,私は彼と別れた。
一週間後,私は上野駅のホームで直也が現れるのをずっと待っていた。列車の発車ベルが鳴り出した。私はまだ直也が来ると期待してホームに立っていた。『コーチ,早く列車に乗りましょう』と監督から言われ,私は空しい気持ちになりながら,列車に乗った。
『直也ついに来なかったですね』と私が言うと,『しょうがないですよ,他人の子供なんですから。教師の大変さが良く分かるでしょう。だからと言って,私は野球を教えるのを辞めようとは思わないよ。私は数年前にあなたから視力を回復させてもらって,本当に感謝しているんですよ。好きな野球を子供達に教えられるんですからね』と監督は言った。
『私も監督には感謝しています。別な視力,いわば心の眼を開かせてもらったような気がしますよ。子供には人格がありプライドを持っていることを。決して親の所有物では無いことを』
『そうですよ。子供は親の言う通りに育ちませんよ。親のする通りに育つのですよ』。私は監督との会話を続けながら合宿へと向った。・
その後,私は須藤直也と会うことはなかった。直也は野球を辞め勉強に没頭し,母親の希望通り名門進学校に合格したそうである。
その後,私の家族に2番目の子供として,男の子が生まれた。彼は小学校3年生の時,野球をしたいということで,茗荷谷ギャングスターズに入部した。それからの私は毎週日曜日,祝日に,息子と供に野球をすることになった。
私の家族に小さな変化が起こった。それまでの私は,上の子供が女の子なのでつい甘く育て,下の子供は男の子なので,つい厳しく育てていたのかも知れなかった。妻から『息子が“お姉ちゃんに比べて僕はいつも厳しく叱られる”と不平を言っているわよ』と伝えられた。私はショックだった。しかし,二人で野球を始めてからは息子との距離が以前より近く感じられる様になった。
人生で自分の子供とキャッチボールができるのはおそらく数年間だけだろう。私はその数年間を大切にしたいと思った。そしてまた,息子との心のキャッチボールはその後も続けたいと,私は望んでいる。
その年の8月に私は公園で直也と再会した。『直也,大きくなったな。キャッチボールでもしようか』と私は言いながら彼にグローブを渡した。『相変わらずへただな』と私が言うと『あれ以来,野球はしていないですよ』
『直也,あれから名門進学校に合格したんだってな。今年は大学生か』
『僕はアメリカに行くことにしたんです。出発する前に,あなたにもう一度会いたくなってね。あの決勝戦に僕を出場させてくれてありがとうございました。しかし,僕はあなたを裏切ってしまった。どうしても母が,合宿に行くことを許してはくれなかったのですよ』
それから彼は,その後の自分自身の人生を,私にぽつりぽつりと語り始めた。『僕の中学,高校生活は惨めなもので,中学3年生頃から暴力を振るうようになって,遂に母を殴ってしまったんだ。高校1年生の時には,遂に父も殴ってしまった。家庭は崩壊し,父と母は離婚し父は家を出て行ってしまった。父は日本に帰国し,千葉の国立病院の心臓外科部長から,母校の胸部外科の助教授となった。そして数年後,関東の国立大学の胸部外科の教授となった。私は母から常に“父親のようになれ”と言われ続けられ,遂に厭になってしまった。父は人間の心臓を治すことが出来ても,人の心を理解することが出来なかった。コーチ,医者以外の仕事だって,世の中に立派に役に立つものがあると思うのです』
『その通りだよ。どんな仕事だってプライドを持ってすればいいんだよ』
そこへ話を聞いていた監督の沼田が話し掛けてきた。『直也,野球は誰のお陰で勝ったか,誰のせいで敗けたか,はっきり分かるスポーツだ。今の日本人に求められているのは,自己管理,自己責任だ。君は小学校の時にそれを経験した訳だ。その後の人生は私には分からないが,少なくとも今の君になったのは,父親や母親のせいではないぞ。彼等を恨んだりしないで,新しい世界へ旅立てよ。君はまだ若い,いくらでも可能性がある。あの決勝戦の勇気とファイトを思い出せ!』
直也は涙ぐみながら,『今日ここへ来て,あなた方に会えて本当に良かった』と言って去って行った。
我々は彼を見送って,再び子供達と練習を再開した。そして私は心の中で,「最近は“個性の時代”と言われているけれど,一人の人間が出来る事など数少ない。社会に出れば,チームワークで仕事をする事が多い。野球という団体競技で,子供達が野球を学ぶ事より,野球で何かを学んでもらえたらな」と思いながら,ノックを再開した。
2000年1月 江戸川区医師会・会報誌・江戸川207号に記載
2000年6月 東京都医師会ニュース432号に記載
2001年7月 東京都耳鼻咽喉科医会会報誌105号に記載
新緑の季節に都心に新しい高層ホテルがオープンした。そのオープニングセレモニーの招待客に川端耕造がいた。彼は他の客とは違って、多くの不安感を抱きながら、自信満々にスピーチをしている社長の顔を眺めていた。川端は昨年M観光株式会社を退職した。このホテルはM観光株式会社が資本100%を投資して建てたものである。
私が川端耕造と出会ったのは、十数年前であった。彼は左耳下部の腫瘤に気付き我が大学病院を受診し、耳下腺腫瘍の診断を受けて、手術目的にて耳鼻咽喉科に入院となった。その時の担当医でもあり、執刀医でもあったのが私だった。
私が最初に彼に会った時、傲慢でどことなく焦っているという印象を受けた。彼は当時その会社の企画部長を勤めていた。その2年先輩に現在の社長、石塚 勲がいた。川端と石塚は同じ東京の国立大学の出身で、また良きライバルでもあった。石塚は4年前に常務に昇格した。そして今度は、やはり彼等と出身大学が同じで、先輩である専務が社長に昇格した。そして石塚は専務への昇格が内定していた。また彼は自分の後釜に川端を推薦していた。
『これからの数ヶ月、お前にとって最も大切な時だぞ、健康には気をつけろ。それから、プライベートな問題は起こすな』と石塚は川端に助言していた。
そんな矢先に入院になるとは、川端は居ても立ってもいられない状態だった。
私は病状と手術の説明のため、川端が入院している個室に入っていた。
『あなたの腫瘍は耳下腺にできた腫瘍です。耳下腺とは口腔内に唾液を産出させる組織です。その組織は浅葉と深葉とがあって、その境界部には顔面神経があります。顔面神経はそこで大きく5本の枝に分かれて、各々の顔の筋肉を動かしています。あなたの腫瘍は深葉、つまり顔面神経より深い所に有るため、まず浅葉を除去し、顔面神経の5本の枝を露出し、その神経を浮かせてその下から腫瘍を取り出さなければなりません。私はできるだけ慎重に神経を保護しながら手術を行うつもりですが、万が一の場合、術後に顔が曲がるかもしれません』
私の説明を聞き終わると、川端は一瞬沈黙し、そして、次に怒鳴り始めた。
『冗談じゃないよ。顔が曲がるなんて。俺は今、大切な時なんだよ。教授とか助教授とか、誰が他に上手な医者はいないのか…』
傍で聞いていた彼の妻が、彼の話を制して言った。
『先生、申し訳ございません。主人は今、気が動転していまして。また私からもよく話しておきますから』 そして、私の手から手術承諾書を受け取った。
翌日私が彼の病室を訪れた時、石塚が訪れていた。石塚は川端に何か良い知らせを伝えたらしく、その時は、川端は非常に上機嫌になっていて、『先生、昨日は誠に失礼な事を言って、申し訳ございません。手術よろしくお願い致します』と、昨日と全く異なった慇懃な態度で言った。
『最悪な場合のことを話したまでです。御理解し納得していただけたでしょうか』と言って、私は彼から手術承諾書を受け取った。
手術は、顔面神経刺激装置で、顔面神経を確認しながら順調に進み、4時間後腫瘍の摘出に成功した。しかし、私は患者の麻酔が醒めるまで、やはり一抹の不安は隠せなかった。
麻酔覚醒後、私も患者も喜ぶ結果となった。そして、抜糸をして退院の日を決めようとした時、病理の結果が届いた。その診断は“Adeno Carcinama(腺癌)”だった。私は一瞬、眼を疑った。私はこの事実をいかに川端に理解させるかを考えて、彼の病室に入った。しかし、抗癌剤治療も放射線治療もいっさい拒否された。
『私は先生が全部取りきってくれたと信じるよ。だから、一刻も早く退院させてくれ』と川端は冷静に話した。私はやむをえず退院を認めて、その代わりに、私の外来で全身の精査をすることを約束させた。
退院後、川端は私との約束を守り通した。そして、1ヶ月に1度の診療から6ヶ月に1度の位の診療になり、その後私が出向した時は出向先の病院まで訪れるようになり、私が開業した時は、私の医院で経過観察をするようになった。そして、再発もなく、今ではゴルフ場で1年に1〜2回、彼とゴルフを楽しみながら診察することとなった。
その後の川端は常務となり、石塚が社長になると、彼は専務取締役に抜擢されて65歳で退職した。
そして、ある秋空の下で、私はゴルフをしながら彼の回想を開くことになった…。
数十年前、川端は都内に遊園地を保有し、娯楽、スポーツ観察、レジャー等を提供しているM観光株式会社に入社した。川端と石塚は若い頃には遊園地部に所属し、遊園地に新しい乗り物が完成すると、客に乗せる前に、真っ先に試乗させられた。川端はその頃のことを人生の大切な思い出の一つとして、心の中に閉まっておいた。また、野球場部に所属していた時は、プロ野球を無料で観戦できた。雨で野球が中止の時は、仕事も中止になることもあった。しかし、土曜、日曜日、祭日が出社のため、家族と一緒に過ごせる時間は少なかった。彼は日曜日や祭日に、たまには雨が降ることを望んだ。それに対して、石塚は野心家だった。彼は家庭よりも仕事を優先させる男だった。そして、神は石塚にチャンスを与え、石塚新社長が誕生した。
石塚は、次々にニュービジネスを立案し、それを実現していった。当時は後にバブルと呼ばれるようになった好景気の時だった。まず3つのゴルフ場を造設し、次にスキー場を造設した。また地方にリゾートホテルやリゾートマンションを建設した。初めのうちは、実に順調に事業が展開していた。しかし、バブルがはじけると、3つ目のゴルフ場は、募集した会員は予定の三分の一しか集まらず、スキー場は客足が遠のき、リゾートホテルは赤字、リゾートマンションは半数が売れ残った。しかし、遊園地や野球場の経営が順調でなんとか会社は保っていた。そこに、バブル時代に申請した都心の高層ホテルの計画に、今頃になって許可が下りた。そのホテルの建設費用が1200億円で、それを融資したのは経営危機が囁かれているE銀行であった。
私はゴルフをしながら川端に質問した。
『あなたはそのホテルの建設計画に賛成だったのですか?反対だったのですか?』
『それは内心では、反対に決まっているよ』
『じゃ何故、反対しなかったのですか?専務取締役でしょう』
『会社の取締役会議では、その計画に賛成か、反対かではないんだよ。社長の考えにYESかNOかだ。NOなら会社を辞めるしかない、辞めなければ左遷だよ。だから皆、社長の顔ばかりを伺っているんだよ。社長の考えに近くないとまずいからね。単なる、YES MANだよ』
『それじゃ、イラクのサダム・フセイン大統領とその側近達と同じじゃないですか』
『そうだよ。だからホテルの建設計画は、行政から許可が下りず、ずっと延期のままでいてほしかったんだよ。しかし、残念ながらついに許可が下りてしまった。もうあの会社は、社長が辞任するか、もしかしたら会社が倒産するかだ。私は石塚社長のおかげで、65歳まで専務取締役として勤務できた。しかし今、私は社長が交代することを望んでいる。こんな話は、どこにでもあることだよ。先生達の世界にだってあてはまるんじゃないの』
丁度、その話を聞き終えた時、私達は9番ホールに到着した。まず、川端がドライバーを持って打った。
『ナイスショット』と、まわりから声がかかった。
次に私がドライバーで打った。皆、無言だった。そして、私の後輩達が次々に打った。私は林に入った私のボールを探しながら、大学病院の医局員であった頃のある事件を思い出していた…。
医師としてある程度、経験を積み、外来にも手術にも自信を持ちだしていた頃、私は教授回診というものに、疑問を感じ始めていた。
『教授は本当に患者のこととを把握しているのだろうか。教授の指摘することの中で、例えば”あの検査をしましたか”と言う質問に、私は無意味に感じるようになっていた。
そして、ある日私はついに言ってしまった。
『その検査が、何故必要なんですか』
『何、君はそんな事もわからないのか。少しは勉強したまえ』
するとすぐに病棟医長の高垣和彦が私を制するようにして言った。
『誠に申し訳ございません。すぐ、検査の予約を取ります』
私は心の中で、“この数年間、勉強していないのは一体どちらなんだ”と思ったが、これ以上教授に反論すれば、病棟医長にも迷惑がかかると思って沈黙した。
回診後、私は病棟医長にカンファレスルームまで呼び出された。
『お前、いったい何を考えているんだ』と彼にいきなり怒鳴られた。
『私は間違っていたでしょうか? あの患者に教授が指摘した検査が本当に必要なのでしょうか』
『必要か、不必要かを論じているんじゃないよ。教授の命令に素直に従えるか、従えないかだよ』
『それじゃ、回診のための検査じゃないですか。私は最近大学病院の検査の適応に疑問を感じているんですよ。数ヶ月前、外来担当をしていた時、内科に入院している患者さんの診察を依頼されたんですよ。主訴はめまい。その患者さんに問診を始めると、その患者は何て言ったと思います?「ちょっとめまいがすると担当医に言ったら、耳鼻科のめまい外来の受診の手続きを取られてしまった。隣室の患者さんなんかは”少し咳がするけれど、それを担当医に言えば検査と薬がまた増えるだけだから我慢する”って言っているんですよ」と私は言われてしまいました』
『大学病院なんだから、検査するのは当然じゃないか。また大多数の患者もそれを期待しているんだよ』
『それは、大学病院の医者のおごりですよ。後輩達の外来の診察を見ていると何とも嘆かわしいと思ったことがあります。例えば、頬部嚢胞の患者を診察した時、レントゲン一式(単純撮影、断層撮影、CT)という判子をカルテに押すだけで、その結果も見ずに、外来医長の診療の予約を取る奴もいる。また、もっとひどい奴は、めまい患者を診察した時、問診表の一つ一つの質問事項の意味を全く理解せず、患者が答えた問診表をカルテに貼って、めまい一式の諸検査を予約し、当然その検査を見る気もないし、理解する能力もないので、めまい外来の予約を取るだけという奴もいます。私はそんな奴等に、“それでいいのか”と聞いたら、上からの指導だから、それにただ従っているだけですよ。患者も精密検査を希望して来院しているのですからね。”と答えた。こんなことで、いいんですか。医学が進歩すれば患者が楽になるのではなく、検査が増えて、経済的・肉体的な負担が増加するような気がしますよ。高垣先生』
私はつい興奮して、病棟医長に問いただした。
一瞬の沈黙があった。そして、次の瞬間……。
『先生のボールここにありましたよ』と後輩に声を掛けられた。
私は2打目を林から上手にフェアウェイに出して、3打目をグリーン周りのバンカーに入れ、4打目でグリーンに乗せて、ワンパットでホールアウトした。ボギーだった。私にしては上出来だった。
結局、今回も私は川端に勝てずにゴルフを終了した。
私は帰宅する為、川端が運転するベンツに同乗した。その車の中で、私達は今日のゴルフのことや、これからの事について色々と話し合った。そこで私は今日9番ホールの林の中で、自分のボールを捜していた時、私の脳裡に浮かんだ或る過去の出来事と、その後、私が医局員達にその真意を問われることなく、“教授にお言葉返しをした男”というレッテルを貼られて、茶化されるようになったことを川端に話した。
そして、彼の車が都心に入って、ちょうど新しくオープンしたホテルの前を通過した時、川端が私に言った。
『今日、石塚社長が独裁者で、我々がYES MANだと言ったけれど、私も立場によっては、独裁者だった時もあったのではないだろうか。私が常務取締役の時、部下の意見をどんな態度で聞いていたのだろうか。私にとって耳障りな意見を言う奴を遠ざけて、都合のよいことばかり言う奴を近づけていなかっただろうか。人は他人の横暴には気が付くが、自分のことには、甘くなるんだよ』
『そうかもしれませんね。私も他人の行動には厳しい基準を定めて、自分の行動には甘かったかもしれませんね。私は今、開業して院長という座について、本当の意見に耳を傾けているだろうか。不安になってきましたよ』
『他人からの評価ばかりを気にしても、また問題なんだ。リーダーシップが無くなるからね。しかし、物を決める時、必ず反対意見が出てくるのが正常な状態なんだよ。その反対意見を頭から否定しないで、きちんと妥協案を見つけながら決定できる人間が、最良のリーダーなのかもしれないよ』と川端が言い終わる頃に、彼の車が私の自宅の前に到着した。そして、私は次回の診察日、すなわちゴルフの約束を決めて、彼と別れた。
2001年1月 江戸川区医師会・会報誌・江戸川215号に記載
7月17日木曜日、私の足は一人の青年、巽陽平を応援するため神宮球場に向かっていた。私は肌にまとわりつく蒸し暑さに、もうすぐ梅雨の終わりが近づいている気配を感じていた。
私はこの試合が木曜日であったことを神に感謝した。毎年7月中旬から甲子園大会の東京都予選が始まる。巽陽平が所属する都立Y高校は3回戦まで勝ち進めば、あのT大付属高校との対戦である。その日7月17日は木曜だった。丁度私の医院の休診日で、私は必ず応援に行こうと決めていた。
都立Y高校は、私の期待通りに3回戦まで勝ち進んだ。
当日、私は信濃町駅の改札口で沼田武雄とおち会った。彼は文京区で茗荷谷ギャングスターズという少年野球チームの監督をしていた。私は以前、コーチとして、そのクラブで子供達に野球を教えていた。そして都大会や全国大会で多くの感動を味わった。私は子供達に野球を教えたつもりだったが、逆に彼等から大人として、医師として大切なものを学んだような気がした。私の子供はこのクラブを卒業したが、私は審判員として、現在も少年野球に携わっている。
神宮球場に着いて、都立Y高校のベンチ側・3塁側スタンドに登っていった。すると我々に気付いたのか、陽平の両親が手を振り、そして深々と頭を下げた。
『お久し振りです』と私が声をかけた。
『お忙しいのに、わざわざ応援に来ていただいて本当に有難うございます』と母親の淑子が応じた。
『皆さんに心配をかけましたが、陽平の奴は本当に幸せ者です』と父親の幹夫が言った。
私と沼田は試合の始まる前、ブルペンで投げている陽平の雄姿を眺めていた。そして、大人達のエゴに振り回され続けた彼が立ち直って、このような日を迎えられて本当に良かったと思った。
巽陽平は、文京区の少年野球チーム・本郷スコーピオンズに4年生の時から所属していた。本郷スコーピオンズは伝統的に強豪チームだった。監督の久保寺は子供達を厳しく指導し、毎年強く鍛えられたチームを育て、大会に出場していた。巽陽平は5年生頃から、特にピッチャーとしての才能を開花させ始めていた。彼等のチームは、9月上旬から始まる文京区大会の新人戦で優勝し、文京区代表として11月の23区大会に出場し、そこでも見事優勝した。6年生になって、春の区民大会で優勝し、6月の都大会でも優勝。そして8月に行われる全国大会(高円宮杯)への出場を決めた。彼はコントロールがよく、その球のスピードは小学生が簡単に打てるものではなかった。
東京都はアメリカのニューヨーク市と姉妹都市の提携をしていて、毎年夏休みにニューヨークで、少年野球の親善試合が行われていた。そして30名の子供達が代表選手として選ばれた。陽平は6年生の時、その一人に選ばれた。本人も両親も大喜びだった。
しかし、この吉報を素直に喜べない男が一人いた。久保寺だった。彼は高円宮杯で優勝し日本一になることを目指していた。彼にとっても、これが最初で最後のチャンスかもしれないと思っていた。これを成し遂げるには、巽陽平は絶対に欠かせない選手だった。久保寺は陽平に向かって言った。
『個人のためと、皆のためと、お前は一体どっちを選ぶんだ?お前はいいさ、一人でニューヨークに行ってな。しかし少しは残された奴のことも考えろよ!』
陽平は非常に悩んだ。そして両親と一緒に出した結論は、やはりニューヨークに行くことだった。その結論を聞いて、久保寺は怒鳴った。
『俺がこんなに頼んでも駄目か! だったら勝手にしろ。ニューヨークでも何処にでも行け。その代わり、本郷スコーピオンズのユニフォームは脱いでもらうからな』
小学6年生の陽平にも、その意味はよく解かった。チームの誰からも祝福されず、陽平は両親とともにニューヨークに向かった。5度の試合が行われ、そのうち2度、陽平は先発ピッチャーとして活躍した。そして2週間の彼の旅も無事に終了した。 その頃本郷スコーピオンズは、全国大会(高円宮杯)での第一回戦で大敗を喫した。久保寺の怒りは収まらず、陽平をチームから追放した。 その話を聞き付けた文京区少年野球連盟の理事長・倉田は、久保寺を説得したが無駄だった。しかし他のチームへの移籍は認めさせ、倉田の紹介で巽陽平は茗荷谷ギャングスターズの一員となった。 私は彼の球をキャッチャーミットで捕った時、その速さと威力に驚いた。“果たしてうちのキャッチャーが彼の球を捕れるかな?”と心の中で呟いた。スーパースターの登場でチームは活気付いた。しかし残念ながら、茗荷谷ギャングスターズは夏の大会・2回戦負けで、既に文京区代表としての公式戦は残っていなかった。あとは東部大会や城北大会ような、参加費を支払えば出場できる私的大会に参加した。その結果、捕手・内野・外野の選手達は目覚しく成長し、輝かしい成績を修めた。 そして6年生にとって、最後の大会・サヨナラ大会が3月上旬に始まった。陽平の活躍と他の選手たちの成長で、ギャングスターズは1・2回戦、準々決勝戦、準決勝戦を圧勝し、決勝戦に駒を進めた。 茗荷谷ギャングスターズの試合をじっと見つめていた男がいた。それは久保寺だった。彼が監督している本郷スコーピオンズは、準決勝の第一試合で勝利し、決勝進出をすでに決めていた。彼はギャングスターズの投手が、巽陽平であることに注目した。その日の夜、彼は連盟理事長・倉田に電話をかけた。 『理事長、ギャングスターズのピッチャーは以前うちにいた巽陽平ですよ』 『知ってるよ。私がギャングスターズに紹介したからね』 『しかし、連盟の規約を読んでくださいよ。移籍した選手は1年間文京区内での公式戦には出場できないんじゃないですか?』 『でも君は、彼がギャングスターズに移籍することに同意したじゃないか』 『それは文京区の公式戦に出場できないことを条件にね』 『今さら・・・とにかく来週日曜日が決勝戦なんだから、緊急理事会を開くよ。結論は理事会一任でいいね。』 『わかりました』とやや不満げな声を残して、久保寺は受話器を置いた。 木曜日、午後7時30分から緊急理事会が開かれた。倉田理事長、山岸理事(茗荷谷ギャングスターズ所属)、荒俣理事(本郷スコーピオンズ所属)、他4人、合計7人で理事会が構成されていた。 『まず今回、スコーピオンズさんから提出された議案について、皆さんの意見を聞いて今日中に決定したいと思います』と倉田が話を進めた。そして荒俣が提案理由を説明した。その説明が終わるとすぐに、山岸が手を上げて発言を求めた。 『皆さん、少年野球は一体誰のためにあるのでしょう。まずは子供のことを第一に考えてください』
すると荒俣がすぐに反論した。 『そんなこと当然ですよ。じゃ一体何のために規約があるのですか?子供にルールを守らせるのも大人の仕事です』 『そうですよね。そもそもこの規約をつけなければならなかったのは、過去に何かがあったからですよね』と他の理事も発言した。 『昔、子供の引き抜き合戦があってね。それを防止するためにこの規約を入れたんですよ』と倉田が説明した。 『誤解しないでくださいよ。我々ギャングスターズが巽君を引抜いた訳じゃない』 『でもね、子供がコーチから怒られたり、親がチームの方針が嫌いだといってすぐにチームを乗り換えることを認めていいんですか?我々は託児所じゃない。我々は都大会・全国大会を目指すチームです。仲良しクラブとは訳が違う』 『それはどういう意味だっ!』山岸が怒鳴った。 『まあまあ二人とも、大人じゃないか。今日は喧嘩をしに来た訳じゃないだろう』 それから30分位、全ての理事の意見が出たところで倉田が切り出した。
『なかなかまとまらないようだね。仕方がない、多数決で決めよう。そこで茗荷谷さんと本郷さんに約束してほしいんだ。どちらに決着しても、恨みっこ無しだよ。脱退とか、連盟の分裂は絶対に避けたいからね』
二人とも同意した。採決は無記名で行われ、結果はすぐに出た。4対3で、茗荷谷ギャングスターズの負けであった。そして、今度の日曜日の決勝戦には、陽平はベンチに入ることを許されなかった。その代わり、決勝戦までの勝利は認めることになった。山岸は必死にこの条件を理事達に呑ませた。
倉田は声をかけた。
『山岸さん、巽君はベンチには入れないけれど、必ず試合には来させてね。決勝戦終了後、メダル授与には彼も参加できるのだから。それに最後のセレモニーで父母・監督・コーチ・大会役員・議員・5年生以下の子供達による人間アーチの中を通って、拍手に送られて六義園・野球場を去って欲しいんだよ』
『私も同感です』と山岸は悔しさをなんとか抑えながら答えた。
翌日の夜、茗荷谷ギャングスターズの緊急コーチ会議が招集された。全員で11人集まった。山岸から理事会の決定がコーチ達に報告された。
『冗談じゃないよ』とコーチの一人が声を発すると、
『決勝戦、放棄だ!』
『本郷の奴ら、あまりにも汚い』
次々に怒りや不満の声が上がった。
沼田監督は全員をなだめるように話し始めた。
『まあ聞いてくれ! 試合放棄は絶対にしない。ここまで頑張ってくれた他の子供達が可哀想だぞ。私の指導方針は子供達が茗荷谷ギャングスターズを卒業する迄に、彼等に一つでもいいからメダルを取らせることだよ。その色が金であろうと、銀であろうと、銅であろうと関係無いさ』
コーチ達は渋々納得した。
そして、監督と山岸と、当時6年生担当コーチだった私が巽陽平の自宅を訪問した。両親と陽平に、監督から状況を説明した。3人は初めの驚きの表情から、次第に悲しみの表情へと変わっていった。しばらく話し合って、我々は巽宅を後にした。帰る前に私は『日曜日の試合には必ず来い!』と強く念を押した。
茗荷谷駅の近くの居酒屋に私達は立ち寄った。沼田は全く酒の飲めない人であった。しかし、何とかビール一杯を飲もうとしていた。
『私は長年少年野球に携わってきたが、こんな後味の悪い事は初めてだよ』
『俺はまだ怒りが治まらない!』と山岸が言った。
『僕もですよ。決勝戦はスコーピオンズを徹底的にやっつけてやる!』と私も力が入った。そして、私も山岸も相当の深酒となり、どうやって帰宅したのかも分からなかった。
3月20日(日)決勝戦当日、巽陽平の姿は何処にも見つけることは出来なかった。午後1時に「プレーボール!」が球審からコールされた。序盤は何とか本郷スコーピオンズの攻撃を防いでいたが、3回に1点の先取点を許すと徐々に劣勢は明らかになり、結局8対2の完敗だった。しかし、準優勝だったので銀メダルを獲得し、6年生達は満足の笑みを浮かべ、人間アーチをくぐって六義園を去っていった。
3日後の春分の日は、茗荷谷ギャングスターズは会場を借りて、6年生を送る会を開催した。巽陽平はその会にも姿を現さなかった。私は大人のエゴが一人の子供を傷つけてしまったことを悲しんだ。
その後、中学生になった陽平はシニアリーグ(硬式野球)の新宿ジャガーズというチームに所属した。彼はそこで自分の実力を向上させた。私は陽平が野球への情熱を持ち続け頑張る姿に、心の中でいつもエールを送っていた。彼は中学3年の時には「甲子園に出場したい」と夢を描くようになった。
江戸川区のK学院から陽平に声がかかった。新宿ジャガーズの鴨下監督は、そのことを陽平と両親に告げた。二つ返事で答えが返ってくると思っていたが、両親からは次のような話があった。
『弟の秀平も、一緒に入学、入部させてもらえないだろうか?彼も一緒に甲子園に連れて行って欲しい』
陽平には2卵生双生児で弟の秀平がいた。彼は陽平ほど野球が上手くなく、スポットライトを浴びることの多い陽平の陰を歩いていた。両親はそんな秀平が不憫でならなかった。
『お父さん、それはきっと可能だと思います。この世界では、一本釣りは認められないのですよ。必ず他の選手も一緒の入部を認められるでしょう』と請け負った鴨下は、もう一人選手を付け加えて、合計3人の選手の推薦入学・入部を依頼した。しかし、鴨下の予想は外れた。K学院は拒否してきたのだ。そしてこの話は無いものとなった。陽平はまたしても、大人の思惑に振り回されてしまった。
陽平の第一希望校は、板橋区のT大付属高校だった。しかし残念ながら推薦入学の話は舞い込まなかった。彼は一般受験をして、見事合格した。
入学後、彼はすぐに野球部に入部届けを提出した。T大付属高校・野球部は、高校野球の東京都代表の常連校で、数多くのプロ野球の選手を輩出していた。現在の監督の名は前嶋。部員は総勢約90名で、3年生が15名、2年生が25名、そして1年生が50名だった。各学年に、監督推薦枠で入部した部員が15名づついて、彼等は合宿所に直ちに入所した。その他、監督が認めた約10名が合宿所生活を送っており、その他は自宅からの通学だった。推薦組以外の部員は、4月に1年間の部費10万円を納めなければならなかった。野球部には約500万円が入ることになった。又、荒川の河川敷に専用の野球場を2面持っており、物資共に恵まれた環境だった。
いよいよ練習が開始された。しかし、推薦組とは全くの別メニューだった。陽平は毎日、グランド整備とランニング、キャッチボール、そして球拾いに明け暮れた。推薦組は準備運動・ランニングが終わるとシートノック等、打撃練習が行われた。
このような差別的な練習に、5月頃から退部する新入部員が増え始めた。毎年、夏の甲子園・東京都予選がスタートする頃には、1年生は30名位になっていた。そして、甲子園に出場できなかった場合は夏合宿が8月1日から8月12日まで行われる。その参加費用も、推薦組は無料だったが一般組みは有料だった。
その頃、陽平の野球センスの良さに気付き始めた男がいた。コーチの向井だった。向井は陽平に向かって言った。
『今度の夏合宿、頑張れよ!合宿中にお前を1年のレギュラー組に推薦するつもりだからな』
陽平は希望を膨らませながら合宿に臨んだ。
合宿の部屋割りは、3年、2年、1年が合同で6人で1つの部屋が割り当てられた。そして1年生達は、監督、コーチ、上級生の練習着の洗濯やボール磨き、練習時の水当番等の仕事をやることになっていた。
陽平が洗濯当番のとき、彼はコーチの練習着を部屋に取りにいった。部屋に入ろうとした時、向井コーチと前嶋監督の話が聞こえてきた。
『監督、巽陽平をご存知ですか?』
『いや、あまり良く知らないが』
『一般入学で入部してきましたが、結構使える奴ですよ』
『向井コーチ、この前も浦部という奴を“いい選手だ”と言ったよな。でも合宿で1軍で少し試したら、すぐに肩を壊して使い物にならなかったじゃないか。そもそも俺の目に狂いはないんだ。俺は自分が選んできた選手をまず使うんだ』
『しかし一度、目をかけてみたらどうでしょう』
『コーチがそこまで言うのなら、バッティングピッチャーにでも使ってみようか』
その言葉が耳に入ってきたとき、陽平には衝撃が走った。
『俺がバッティングピッチャー?小学校の時、東京都代表のエースだぞ。監督の目は節穴じゃないか。もう、こんな部ばかばかしくてやってられないよ。俺はやめた!』
9月の新学期、陽平は退部届けを提出した。向井から引き止められることはなかった。
その後、彼の学校生活はつまらなく無味乾燥なものだった。次第に学校を休みがちになり、繁華街をぶらつく彼の姿が見られるようになった。そのうち、暴走族に係わるようになった。
茗荷谷ギャングスターズの卒業生の父母と監督・コーチとの交流は続いており、陽平のそんな様子や、母親が心底悩んでいることを聞くにつけ、私は胸を痛めていた。そんな或る日、陽平の母親から電話をもらった。
『息子が交通事故で、上顎骨を骨折してしまって、手術のため入院しています。先生、大丈夫でしょうか?』
母親から状況の説明を受けた私は、早速沼田監督と二人で見舞いに行った。病室に入った時、陽平の手術は既に数日前に終わっていて、鼻から上顎洞にカテーテルが挿入され、バルーンが膨らんでいる状態であることが、私にはすぐに理解できた。陽平は最初懐かしそうな顔をして迎えてくれたが、次の瞬間、
『何しに来たんだよ。どうせお袋が呼んだんだろ。余計なことをしやがって』と言いながら、見舞い客が持ってきたであろう花束を、母親に投げつけた。
私は思わず陽平の胸倉をつかんだ。
『いつまでも甘えてるんじゃないぞ! お前の右手は、何を投げるためにあるんだ』と言ってベットに押し倒した。
陽平は泣き出した。沼田監督が陽平の耳元で囁いた。
『すまん。我々大人が君の才能を利用して、自分の夢を達成しようとばかりしていたんだよ。もし何か、君に協力できることがあったら、ぜひ教えて欲しい』
陽平は拳を握って枕を叩き、嗚咽をかみ締めながら『俺は野球がしたい・・・』と何度も繰り返した。
沼田は彼の肩を叩きながら『よくわかった。またやり直そう。我々は君にもう一度野球が出来る高校を探すよ』と約束した。
『よし、またボールを握って野球のトレーニングを始めような。あと勉強もだぞ。もう悪い連中とは付き合うなよ』と私も彼に声をかけた。
その後しばらく、我々は陽平・母親と話し合った。そして病院から帰る時、陽平は玄関まで送ってくれた。無言で小さく会釈した彼には、真っすぐな眼差しが戻っていた。
沼田は仕事の合間をみて、必死に陽平に合う高校を探し、その野球部の監督とも話し合った。そして都立Y高校が最も適切だと判断し受験を薦めた。翌春、陽平は見事に合格し、再スタートを切った。
陽平はすぐにエースで4番の位置を占めた。しかし、(財)日本高等学校野球連盟の約定・第4条の3項(転入学生の出場資格は転入学した日より満1ヵ年を経過した者)により、即ち彼は新しく入学した高校で、直ぐレギュラーになれても、その年、夏の甲子園大会の東京都予選に出場できなかった。彼は今度は腐らなかった。毎日野球が出来る喜びを知ったからだ。2年生になったら、彼にとっては最後の夏の大会に出場して、出来るだけ勝ち進もうと決意していた。
7月17日、神宮球場はまだ梅雨が明けていないが、シード校のT大付属高校にとっては初戦となった。対する都立Y高校は1回戦を12対0でコールド勝ち。続く2回戦を9対0でコールド勝ちと進んできた。4番でエース番号1を付けた巽陽平の剛速球は冴えていた。T大付属高校の監督・前嶋は巽から点を奪えないことにいらついていた。そして、選手たちを罵倒していた。
『相手は2年生ピッチャーじゃないか。お前達、何やってるんだ!』
陽平は打たれるが、決してノーアウトから出塁させなかった。9回裏に入った。Y校の攻撃である。前嶋は延長戦に入ればいずれ相手のピッチャーがへばって、大量点を取れると信じていた。
隣に座っていたマネージャー兼スコアラーが『前嶋監督、Y校の次の打者、4番でピッチャーの巽という選手、もしかしたら我々と同期の巽陽平じゃないでしょうか?』と進言した。
『えっ?でも2年生だぞ。同期なら3年生のはずだろ』
『しかしY高校に再入学した可能性もあるのでは?』
『まさか・・・』その時、前嶋の脳裏に、既に退団した向井が、以前何度も『巽をレギュラー組に』と進言していたことを思い出して、ふと嫌な予感がよぎった。カウントは1ストライク3ボールとなっていた。
思わず『ピッチャー無理するな!延長戦に入ればうちが有利なんだから、歩かせろ!』と前嶋が怒鳴った瞬間、カッキーンという快音が響いた。そして、白球はレフトスタンド方向へ飛んでいった。
私の心の中で、その白球が巽陽平自身と重なり合った。彼は色々な壁を乗り越えてここまでやってきたのだ。
私は無我夢中で祈りを込めて叫んだ。
『飛べ、陽平、フェンスを超えろ!………』
江戸川区医師会会報誌・江戸川2003年12月号に記載
世の中には信じられない驚くべき話が身近にあるものです。今回の話を皆さんが信じるかどうかは皆さん次第です・・・。
秋の気配が近づき始めた頃、テレビのワイドショーが或る事件を取り上げていた。“湖に謎の全裸死体!身元はエリート医師、他殺か自殺か警察は現在捜査中・・・”
その数ヶ月前、椎名宏明は教授室に呼ばれた。
『椎名先生、悪いけどF市立病院に7月と8月だけ行ってくれるかな。あそこの精神科部長の野瀬先生のお父さんが突然倒れて、急に2〜3ヶ月自分の病院を手伝うことになってね。その間2〜3ヶ月位休暇をもらいたいと言っているんですよ。急に言われたんだ。あそこの病院、地方にはあるけど、うちの関連病院としては大切な病院であることは知っているよね。病院長もうちのOBだしね』と教授は少し困った顔をしながら話しかけてきた。しかし、その瞳の奥には椎名が必ず自分の申し出を受けてくれるという自信があった。
予想通り、椎名は教授の申し出を快諾した。教授室を去り、医局に着くと誰もいなかった。椎名は約8年前のことを思い出した。当時30歳前後で独身の精神科医だった彼は、F市立病院に出向していた。F市立病院は山々に囲まれ、東京から100km以上離れ、東京からの通勤は不可能で、多くの医師達は単身赴任だった。病院の敷地の近くに5階建のマンションがあり、各部屋は2LDKで一人で暮らすには充分な広さだった。そのマンションの周囲に一戸建の家も用意され、医師達数家族が入居していた。
その時は、2年間の勤務で、精神科医として必死に腕を磨いている最中だった。そんな中一人の女性と出会った。彼女の名前は相川梨花。彼女は市内から少し離れた町に住んでいて、地元の看護学校を卒業してF市立病院に勤務して4年目だった。
宏明と梨花は出会った時からお互いに気持ちが引かれていた。そして、同じ病棟で働くうちに愛が芽生え出した。梨花は看護寮を出てアパートを借り一人暮らしを始めた。お互いの勤務のない時はできるだけ周囲へは秘密にして、二人だけの時間を大切にした。デートは市外へ行き、夜は彼女の部屋で過ごした。しかし小さな町では秘密にしておくことが難しく、二人のデートをしばしば目撃され、徐々に病院内で噂となっていった。宏明は梨花との結婚を決意した。そして、両親に彼女を紹介することにした。両親は梨花と会うには会ったが、最初から彼女との結婚には反対だった。宏明は、両親を説得することができないまま時が過ぎていった。
そして大学に戻るように医局長から指令が来た。
『東京に戻ったら何度も両親を説得するからもう少し待っててね』
宏明は何とか事態が好転することに期待しながら梨花に話した。しかし、彼女はこの結婚が難しいのではと考えていた。彼が自分をとるか、両親をとるかのどちらかになると思っていた。彼女は宏明が自分を選んでくれるのに若干の希望を持っていた。
宏明は一人息子で、父親は東京近郊の市で精神病院を経営していた。父親の意見は絶大で、宏明は常に父親の意見に逆らえなかった。両親は息子にはそれなりの家柄のお嬢さんを嫁として迎えたいと思っていた。宏明が東京に戻ってくると、両親は次々とお見合いの話を持ってきた。そして彼は遂に、その中の女性の一人である有希奈と付き合うようになった。彼は次第に梨花のことを忘れ始めていた。東京に戻ってから5ヶ月位経った頃、梨花から手紙が来た。その手紙の中で、新しい恋人ができたこと、その男性と結婚を前提として付き合っていること、今後二人は別々の人生を歩いたほうが良いと書いてあった。宏明はその手紙の内容が別れを意味していることをすぐに理解した。初めは梨花への思いが強かったが、時間と有希奈がそれを打ち消した。
そして、宏明は有希奈と結婚した。周りから祝福された結婚式だった。その後、宏明と有希奈との間には二人の子供が生まれた。しかし、宏明の記憶の中には、梨花との甘い生活や結婚したら・・・という気持ちを完全に消滅することはできなかった。
教授からF市立病院への出向と命じられた時、数ヶ月とはいえ、梨花との再会があるかもしれないという淡い期待と、今さら会ってどうするのかという自責の念を感じていた。F市立病院赴任前日に、彼は単身赴任用の2LDKのマンションに引っ越した。8年前とほとんど変わっていなかった。東京から持ってきたものはBMWだけで、後は現地で調達することにした。街を歩いてみると、地方都市は東京の5分の1位のスピードで変化しているようだった。東京の変化が速すぎるのかもしれないと思い直した。
F市立病院は中心部より離れたところに立地していて、広大な敷地だった。多くの患者と見舞い客はほとんど自家用車で来院するため、広い駐車場を必要とした。その敷地の中で精神科は一般病棟よりやや離れた所にあった。
宏明は医局での挨拶が済むと、病棟へ向かった。8年前のスタッフの数人の顔は浮かんできたが、ほとんどの名前も思い出さなかった。婦長、主任の名前さえ記憶に残っていなかった。頭の中にあったのは相川梨花と数人の名前だけだった。
病棟での自己紹介が始まった。予想通り全て知らない顔だった。
宏明はがっかりした反面、ほっとした気持ちになった。8年前の梨花との交際の件を知っている者など誰もいなかった。しかし、彼は彼女に会いたかった。宏明は休憩時間になると看護師達と昔話を意図的に話すようにした。
しかし、相川梨花のことを知っている看護師は一人もいないことが分かった。数ヶ月で東京に戻ることになるのだからと、宏明は仕事に集中しようと思い始めた。
赴任して2週間位経った頃、彼は当直を担当していた。看護師達から入院患者の状況を聞いて、当直のベッドで仮眠を取ろうとしていた。
数時間経った頃“コンコン”とノックの音がした。
『先生』と看護師の呼びかける声がした。
宏明はいつも当直の時は深く眠れず、浅い睡眠だったので、すぐに目を覚まし、『どうぞ』と返事をした。
宏明の前に現れたのは、相川梨花だった。宏明は驚きの余り絶句した。そして次の瞬間『梨花、梨花じゃないか』と叫んだ。
彼女は右手の人差し指1本を口元に立てて、左手で宏明の口を押さえて話しかけてきた。
『先生、お静かに、何が起こったんだと皆が思って入って来るわ。先生本当にお久しぶりね』
梨花は8年前と全く変わっていなかった。宏明は少し冷静を取り戻し、話し出した。
『また、この病棟に戻ってきたよ。でも数ヶ月だけ、野瀬先生のピンチヒッターなんだ・・・。君を探したよ。今何処にいるの』
『中材にいるのよ』
『中材って』と宏明は問い直した。
『中央材料室、ほらオペ室の手術器具等を管理する仕事よ』
『精神科医の僕にはあまり関係ないところだね。だから、いくら探しても君を見つけられなかったんだな。てっきり辞めたと思っていたよ』
『私も先生がまた戻ってくるとはびっくりしたわ』
『会えて嬉しいよ』と宏明はしみじみと話した。そして、彼は静かに梨花に質問した。
『誰かと結婚した?』
『先生と別れて、1年後に地元の運送会社の人と一緒になったの。俗に言うトラック野郎よ』
『幸せかい?』と宏明が問うと、
『・・・・・』彼女は何も答えなかった。
『野暮なことを聞いたね』
『別に・・・・まあまあ幸せかな。共稼ぎで、仕事で帰って来ない日も結構あってね。今度先生のマンションに行っていい?』
『いいよ。304号室だからね』
『そろそろ、行くね。看護師達に怪しまれるから。それとね、病院内で私を探したり、会いに来たりしないでね。小さな町だし、大病院と言っても小さな社会だから、すぐ面白おかしく変な噂をたてられるからね。先生も私も傷つくだけだから・・・』と言って梨花は当直室を去っていった。
それから数日後、梨花が304号室を訪れた。宏明にとって、待ちかねた日だった。
8年前に比べ、宏明はやや太り、腹も飛び出し、白髪も少しまじり、そろそろ中年に入ろうとしている体型だった。一方梨花は色白で、素敵なプロポーションを保ち、8年経過したとは全く思わせないほどの美貌だった。二人は直ぐに8年前と同じように一つの布団の中で体を重ね合わせた。
宏明の頭の中から完全に家族のことが消失した。数時間経って、梨花が自宅へ戻る仕度を始めた。
『今日は泊まっていけないの』と宏明が引き止めた。
『駄目よ、朝帰ると誰かに見つかるかもしれないでしょ。それより、次から先生が私の家に来ない。亭主は仕事で週に2,3日は帰って来ないのよね…。今日は私を家まで送ってくれる?』
『いいよ』
二人はそっと304号室を出た。周囲を気にしながら、二人はBMWに乗り込んだ。BMWは梨花の家に向かって出発した。彼女の家は市中から少し離れた所にあった。周囲は民家はなく木々に囲まれていた。中に入ると、8年前に二人で生活した部屋に似ているような感じがした。宏明には初めて入った部屋ではないようだった。彼は20〜30分位、部屋で過ごした後、自分のマンションに戻った。
それから1週間に2回位、梨花から電話があり、夜9時頃彼女の家に向かった。宏明の行動は次第にマンションの別の住人からも注目されるようになった。特に、精神科の後輩である滝村は宏明の行動に不信を抱くようになった。そして、同僚の矢崎と相談した。
『矢崎、どう思う?夜中に何処に出かけるんだろう。こんな田舎町に行く場所なんてあるかい?』と滝村は問いかけた。
『実におもしろい。きっと何かあるよ。どうだろう。二人で椎名先生の後を追ってみようか』矢崎は興味を示した。
『そんな悪趣味なことできるかよ』
その好奇心に冷水をかけるように滝村は言った。
『だったら何故俺に話したんだよ。お前だって椎名先生の秘密を見てみたいんじゃないのか・・・』
すると今度は憤慨した表情で矢崎は反撃した。
結局二人は椎名の後を追うことにした。
そして、その日がやってきた。夜9時を過ぎた頃、二人を乗せたVOLVOはBMWをそっと追跡し始めた。宏明は全く追跡に気付かず、いつものように梨花の家の前に到着し、車を降りた。二人は宏明が入っていた所に疑問を抱いた。市中から離れた小さな神社だった。夜は無人で、周囲は木々が繁り、水子供養、安産祈願等の旗が数本立っていた。宏明はその境内で独り言を言っていた。約1時間位経って、彼はBMWに戻りエンジンをかけ、マンションに向かった。
滝村と矢崎は我が目を疑った。
その後、彼等は密かに宏明の精神分析を始めた。しかし、宏明には勤務中何も問題が見受けられなかった。
宏明は7月に赴任し、9月上旬に医局長から連絡があった。
『9月いっぱいで大学に戻ってくるように』
彼は家族を思い出した。
宏明が大学に戻るという噂はあっという間に看護師達に拡がった。
大学に戻る1週間前、梨花から連絡があった。彼はこのことを彼女に告げ、今日で会うのは最後にしようと思った。その日はなぜか梨花のほうから宏明のマンションに現れた。
『先生、今日が最後のデートなんでしょ』
『・・・・・・』宏明は何も答えられなかった。
『いいのよ。先生・・・今日は夜のドライブを楽しみましょうよ』
『何処に行く・・・?』
『8年前、二人でよく行った湖はどう?』
宏明は同意し、二人はマンションを出ていった。今夜梨花は自分のワゴン車で来ていた。中にはキャンプセットが入っていた。
『私の亭主の趣味は釣りなのよね。車の中にゴムボートも入っているから、あとで二人で湖の奥まで漕いで行ってみましょう』
宏明は今度も完全に彼女のペースにはまっていた。湖畔に到着すると、二人は車からゴムボートを取り出し、湖の奥へと漕いでいった。夏休み後の9月の平日の夜に、田舎の湖畔に観光客など一人もいなかった。
『ここまで来たら、誰にも見られないわ。今日が最後でしょう。素敵な夜にしましょう』
『・・・・・』宏明は無言だった。
周りは全く音がしなく、静かな夜だった。梨花の話し声だけが聞こえてきた。
『さあ・・・・速く脱いで』
梨花は宏明の服をはぎとった。そして、自分もすぐに全裸になり、彼の上に覆いかぶさった。ボートは不安定になっていた。
彼女は宏明の耳元でささやいた。
『8年前と同じね。あなたは自分の都合ばかり。あの時と同じように、私を紙くずのようにゴミ箱にポイッと捨てて去って行くつもりなの。今度はそうはいかないわよ・・・・』
その時である。ボートが反転し、転覆した。宏明は必死にもがきながらも、やっと水面に顔を出し呼吸できた。周囲を見回すと、梨花の姿は見えなかった。そして、彼は何とか岸へ向かって泳ぎ出そうとした時、足に水草が絡まったような気がした。次の瞬間、その水草が彼の両足に絡みつき、そして水面下に彼の体を引きずり込んだ。宏明はもがいて、脱出しようと試みたが、結局彼の姿は二度と水面上には現れなかった。
3日後の週末に、観光客によって宏明の水死体が発見された。
その前日には矢崎から連絡を受けた家族から警察に捜索願いが出されていたので、警察もすぐにその死体に反応した。検死の結果、単なる溺死と判明し、外傷も毒物反応も認められなかった。
身元が医師であることが判ると、ワイドショーが飛びついた。
“湖に謎の全裸死体!身元はエリート医師、他殺か自殺か警察は現在捜査中・・・”
数週間後、予定通り精神科部長の野瀬が病院に復帰した。
『お父様の具合はいかがでしょうか』
看護師長が野瀬の復帰を歓迎する意を含めて話しかけてきた。
『おかげ様で、皆に大変迷惑をかけたね。そうそう、僕の代わりに大学からやってきた椎名先生にいったい何が起こったんだろうね。8年前も僕が大学から赴任してきたのと交代に彼が大学に戻ったんだよ。結局彼と一度も一緒に働けなかったな・・・』
『椎名先生、精神科医としては素晴らしい先生でしたけど、謎の多い先生でしたよ』
矢崎が応えた。
『そうなんですよ。椎名先生、夜になると一人で出かけることが多くてね・・・。』
滝村が話に加わった。しかし、後をつけたことはさすがに言えなかった。
『椎名先生が亡くなった湖、確か7〜8年前かな、この病棟で勤務していた看護師が自殺した湖なんだよ。看護師長は覚えていますか・・・?』
『さぁ・・・。先生、その頃私は眼科病棟に勤務していましたから、でも看護師が自殺したという話を聞いたことがあります』
看護師長は思い出したかのように、曖昧に答えた。
『確か相川梨花と言ったかな・・・。後で判ったことなんだけど、おなかの中に赤ちゃんがいたらしいよ・・・。なんでもその父親は椎名先生じゃないかという噂がたったような気がするよ・・・・』
滝村と矢崎の脳裏には同時に、あの夜の神社の光景が鮮明に思い出され、背筋が寒く感じられ、お互いの顔を見合った。
警察は当初、他殺の線で捜査を開始したが、外傷や薬物反応が全く認められず、恨みを買うような人間関係のもつれなども見つからなかった。そして、自殺の可能性もあると考えた。しかし、家族関係も円満、患者とのトラブルや医療・研究で特に悩んでいた形跡もなかった。遺書も見つからなかった。
では何故、裸体だったのか?どうやって湖に入水したのか?解明できなかった。しかし結局、事故として処理され、捜査本部は縮小していった。
当初騒ぎたてたマスコミも興味深いスキャンダルに発展しそうにないので、次第に報道しなくなった。
数ヵ月後、病棟では、たった3ヶ月の勤務だった椎名宏明のことなど忘れられていた・・・。
江戸川区医師会・会報誌・江戸川2006年7月号
城址公園の桜は、いよいよ満開の時を迎えた。夜桜見物の客や宴会を楽しんでいる人々で公園は今夜も込み合っていた。その客を目当てに多くの夜店が並んでいた。
そぞろ歩く人々の中に中学校1年生の友嗣と小学校5年生の淳平の兄弟の姿があった。彼等は夜桜というよりは夜店に興味があるのが当然で、あちこちの店をひやかしながら歩いていた。彼等は一通り見た後、人込みの少ない路地に入った。
その時である。突然後ろから声をかけられた。
『そこの若いお二人さん』
友嗣と淳平は振り返った。老人の占い師だった。小さな机とその上には小さな行灯が置いてあり、人相・手相と書いてあった。茶色の着物と帽子を身につけた老人はいかにも怪しげだった。
『先程から見ておったんだが、おぬし達二人は将来大物になるものと感じとった。どうだい、人相と手相をわしにもっとじっくりと見せてはもらえないかね・・・』
淳平は少し興味を示した。
その表情を見逃さなかった老人は『料金はもちろん無料だよ』とすかさず声をかけた。そして、淳平を小さな椅子に座らせようとした。友嗣は彼の腕をつかんで、その場を去ろうとしたが、逆に淳平に引っ張られて、その占い師の所へ一緒に連れていかれた。淳平は催眠術にかかったようにその椅子に座ってしまった。老人はしみじみと淳平の人相をながめた。
『二人は兄弟かね?』まず、老人は問いかけた。
淳平は無言で頷いた。すると、
『じゃあ、おぬしを弟君と呼ぼう・・・。』
少し沈黙が続いた後、再び老人が口を開いた。
『弟君は将来何になりたいかね?そのことを頭の中に念じて、わしの顔を見なさい』
淳平は将来の夢を頭の中に思い描いた。
『おぬしは、この城下町を出なければ必ず夢が叶う。将来の夢は必ず叶うよ』
『本当ですか?』淳平は思わず声を発した。
『絶対にこの町を出ては駄目だよ・・・』
淳平は頷いた。
『さあ、お兄ちゃんの人相を見よう。弟君に代わって、この椅子に座りなさい』
友嗣はその占い師を怪しげには思いながらも結局は座ってしまった。
老人はじっくりと友嗣を見つめた。
『おぬしの将来は、この町を出て都会へ行って大成功を収めるよ。しかし、・・・』
老人は沈黙した。
『しかし、何だよ・・・。その先を教えろよ』
『その先は無料というわけにはいかないな・・・。実に興味深い結末だからね』
『何だよ、この爺!やっぱり金目当てじゃないか』友嗣は椅子を蹴飛ばし、淳平の腕を引いて去って行った。
友嗣と淳平は、兄弟とはいえ全く血のつながりは無かった。
二人の父・設楽義嗣は若い頃東京の大学病院で内科を専攻していた。彼は同じ医局に入局した4歳年下の晴江と恋に落ちた。そして結婚した。結婚2年目で晴江は身ごもった。彼女はまだ内科を研修したかったが、義嗣の強い希望に従って、家庭に入り子育てに専念するようになった。翌年、父の正嗣が急に体調を崩し、他界した。義嗣にとっても予想していなかった状況になった。彼は実家の醫院を継がなければならなくなったのだ。一方、晴江は不満だった。彼女にとって田舎の生活は全く想定していなかったからだ。
義嗣には5歳年上の兄・輝嗣がいた。しかし、父と兄は以前より折り合いが悪く、兄は既に東京で開業してしまった。
『ちょっと待ってよ、義嗣さん。兄さん、輝嗣さんがいるじゃない』
晴江は不満げな表情を満面に浮かべていた。
『無理だよ、兄貴は東京で開業したばかりじゃないか。きっとまだ借金も残っている筈さ』
『詐欺だわ。あなた、私と結婚する前に何て言っていたか忘れたの・・・』
『・・・・』義嗣は沈黙した。
『“実家は兄が継ぐと思うから、将来僕達はこのまま東京で生活しよう”って言ったわよね。あれは嘘だったの?』
『だました訳じゃないよ。当時と今は状況が変わったのさ』
『そんなの、あなたの家の問題じゃないの・・・』
『そこを何とか理解してくれよ・・・』
義嗣は何度も晴江を説得した。その後彼女は渋々、義嗣の申し出を受け入れた。
城下町での生活は、都会育ちの晴江にとって退屈な毎日だった。そこで彼女は夫・義嗣の外来を手伝うようになった。しかし、父の代から務めている看護婦達と次第にぶつかるようになった。そんな時、県立病院の外来を手伝う話が舞い込んできた。
義嗣は初めは反対した。
『友嗣の面倒は一体誰が見るつもりなのか?』
『大丈夫よ、家事と仕事を両立させてみせるわよ』
『無理だと思うな。今だって友嗣の面倒を和子さんに手伝ってもらっているじゃないか。いいか、彼女は看護婦であって、家政婦じゃないぞ・・・』
『そんな事は、分かっているわよ。でも、一体誰が女性は家事と子育てって決めたの?』
『・・・・』義嗣は沈黙した。
有村和子は6ヶ月前から設楽醫院に住み込んで働いていた看護婦であった。彼女には淳平という2歳の子供がいた。1年前に夫が交通事故で他界し、1歳の子供を育てながら働ける医療機関を探していた。設楽醫院は、終戦後没落したとはいえ、名家でもあり、何代も続いた醫院なので拡大なる敷地を有していた。そして、病院経営をせず、有床診療所を営んでいた。住み込み可能で、子供がいてもかまわないとう条件で彼女は就職した。彼女は気立ても良く、先輩看護婦達に可愛がられていた。そんな彼女に晴江は目を付けた。晴江は友嗣の面倒を殆ど和子に押しつけて、彼女は病院勤務の時間を増やしていった。彼女の身なり、立ち振舞いも派手になってきた。義嗣は晴江の華麗な姿には以前から好きだった。しかし、東京では目立たない晴江の格好は、城下町では中傷の的とされた。晴江は次第に孤立していった。そんな時、手をさしのべたのは義嗣ではなく、同じ内科で勤務する医師だった。晴江は学会といって週末に外泊する事が多くなった。そして、夫・義嗣は遂に晴江の背信行為に直面してしまった。その頃、5歳になった友嗣は和子にすっかりなついていた。幼い心には自分の母親は和子であって欲しいと描いていた。和子も実子の淳平と友嗣を分け隔てることなく兄弟同然に育てていた。そんな時、晴江は学会に行くと言って家を出たが、遂に戻って来なかった。
数日後、晴江より手紙が送られてきた。今までのいきさつ、子供・友嗣への親権放棄等が書かれていた。また離婚への不満や慰謝料等の請求に対しては、彼女の兄である弁護士の名前と住所を明記していた。そして、彼女の署名と捺印済みの離婚届が同封されていた。
義嗣はその手紙を読み終えて怒りをあらわにした。
そして、手紙をすぐに破り捨てた。しかし、離婚届は完全な状態で残し、すぐに署名、捺印して役所に提出した。
『お母さんは、お父さんとお前を残して、この家を出て行ってしまった。もう二度とこの家には戻らないよ』
彼は友嗣を慰めるように言った。しかし、友嗣は特に悲しむ態度を見せなかった。彼の心の中では母親は既に和子であった。
義嗣、和子、友嗣、淳平の家族同然の奇妙な関係が続いた。
次第に“和子が晴江を追い出し、その後釜にちゃっかり座り込んだ”という噂が広まっていた。
和子は耐えられなくなり、淳平を連れて一時実家に戻ろうとした。その彼女の心を変えさせたのが友嗣であった。和子が簡単な身の回りの物を鞄に詰め込んで、部屋を出ようとした時、友嗣は必死に和子の足にしがみついた。
『友ちゃん、駄目よ。私はあなたのお母さんじゃないの。さあ、早く私から離れて!』
友嗣は絶対に離れようとしなかった。
そんな騒動に気付いた義嗣が駆けつけた。そして、彼女を抱きしめた。
『僕は君を愛している。僕にも友嗣にも君が絶対に必要だ!そんな誹謗・中傷からも君を守ってみせる。そして、君を絶対に幸せにする・・・』
『・・・』和子は無言だった。彼女の目から大粒の涙が流れ落ちた。
義嗣と和子は結婚し、友嗣と淳平は兄弟となった。血はつながっていなかったが仲が良かった。友嗣は元来持って生まれた能力が高く、学業もスポーツもあまり努力しなくても人より秀でていた。一方、淳平は地道に努力する性格で、華やかに活躍するタイプではなかった。淳平にとって友嗣は憧れの存在だった。また、友嗣も淳平の性格を認めていた。一家は周囲からやっと理解され祝福もされるようになり、幸せな生活が続いた。しかし、時が経つにつれ、友嗣は変わり始めた。生活態度が派手になっていた。なんなく一番になってしまう友嗣は、田舎の生活には物足りず、厭き厭きし始めていた。そして、刺激と自分の力をもっと発揮できそうな都会での生活に憧れていた。
『淳平から聞いたんだけど、友ちゃん、将来東京の大学を受験したいみたいね』
和子は義嗣に告げた。
『最近、友嗣の生活態度は変だぞ』
『そうかな、今ごろの中学生はあんなものよ』
『いや、あいつの体には晴江の血が半分流れているからな。立ち振舞いが段々晴江に似てきている』
『あなた考えすぎよ』和子はそう言いながらも一抹の不安を抱いた。
数日後、友嗣はついに自分の思いを父親に告げた。
『お父さん、僕は東京の医学部へ行きたいんだ』
『じゃあ、しっかり勉強しろよ』
『東京の医学部へ行くためには、こんな田舎で勉強していちゃ駄目だ。高校から東京の進学校に行かなくちゃ』
『それで・・・?』
『だから、輝嗣伯父さんの所に下宿して、東京の受験校に進学したいんだ』
『そうか、お前がそこまで考えているなら、私は反対しないさ・・・』
そして、友嗣は東京の進学校に合格した。3年後、東京の医学部に合格すると、伯父・輝嗣の家からも出てマンションを借りて生活し始めた。
彼の生活は次第に実母・晴江に似て来て、派手になっていった。多大な生活費を父親に請求したが、父親は厳しかった。しかし、その不足分を和子が義嗣に内緒で送金していたのだった。
友嗣の交友関係は医学部の学生に止まらず、他学部の学生や青年実業家・モデル等の芸能人までにも及んでいた。
6年後、彼は医学部を卒業し、無事に医師国家試験に合格した。レジデント終了後内科を専攻した。しかし、5年で退職し、東京で内科を開業した。そして、1年後には医療法人を立ち上げ、同じフロアーに眼科・耳鼻咽喉科・整形外科・皮膚科・歯科・人口透析等を誘致した。そして、友人に薬局を運営させていた。バブルが弾け、東京にはあちこちに空室で悩むビルや担保として差し押さえられていたビルが続出していた。それらのビルを好条件で買い叩いて購入していった。学生時代に築いた人脈が役に立ち始めていた。多くのブレーンが集まり始めた。医者や看護師を集める役目、物件を探す役目、運営資金を調達する役目、その他色々な役目が分担され、莫大な借金を抱えながらも、機能し始めた。そして、徐々に友嗣は白衣を着て患者を診察する時間が無くなっていた。
その頃、弟の淳平は地元の国立大学を卒業し、内科を専攻していた。そして、地元の女性と結婚することになった。結婚前日、久しぶりに帰郷した友嗣と淳平は数年ぶりに再会した。
『淳平、結婚おめでとう』
『兄さんこそ、東京で大成功を収めているようで』
『お前もいつまでもこんな田舎に閉じこもっていないで、東京に出て来いよ。どうだね、俺のグループに加わらないか?』
『僕はいいよ。それより設楽醫院の8代目院長はどうするの?』
『その件は、お前に任せるよ。俺は確かにおやじの跡を継げば借金もないし、患者もついているから楽だと思うよ。でも、それで良いのか?一度しかない人生、決められた線路の上を歩くだけで良いのか。俺にはまだまだやりたいことがいっぱい残されているんだよ・・・』
『わしはまだ現役で頑張るつもりだ。わしの跡継ぎの事など大きなお世話だ』
父の義嗣が二人の会話に割込んでいた。そして、有頂天になっているように見られた友嗣に父親として苦言を呈した。
『友嗣、お前は一体医者なのか?利益を追求する資本主義者なのか?』
『お父さん、なぜ医者が稼いじゃ悪いんですか?』
『お前もまだ先生と呼ばれている以上は、患者に真剣に向き合えよ。患者は医師に自分の健康を委ねているんだぞ。経営に自分の労力の多くを注いで、診療が疎かになっちゃ駄目だぞ』
『そんなこと言われなくたって分かっていますよ。でも何故多くのクリニックを開設して、他の医者に患者を診察してもらうことが悪いことなんですか?患者にとってもメリットがあるんですよ。何故、お父さんには理解してもらえないんですか?』
『色々な医者の考え方があって良いと思う。でも古いと言われるかもしれないが、わしは患者の診療が一番、営利が第一目的ではないさ。それが日本の医者の原点であってほしいと願っているよ』
『お父さんは設楽醫院の跡を継いだだけだから、患者は付いているし、借金もない。だからそんな綺麗事が言えるんだ。医療だって競争なんだよ。どんな医者を選ぼうとそれは患者の自由じゃないですか。医者はこうあるべきだと誰が一体決めたんだ!』
『今の日本の医療保険制度は普通の医療を続けていれば、医者はそこそこの生活ができるんだよ』
『そんな日銭稼ぎで終わりたくない!』
友嗣は父親に激しく逆らった。
『開業医は他の先生と協力して、地域活動に奉仕することだって必要なんだ』
『馬鹿馬鹿しい』と友嗣が発すると、
その言葉を聞いた父親の義嗣は、落胆の表情を隠せなかった。
『金にならないことはお前にとって、馬鹿馬鹿しいことなのか』
『当然ですよ』
『お前は巨額な資産をきっと築くだろう・・・。しかし、お前には医者として品格が全く無くなってしまった』
義嗣は息子の姿をしみじみ見ながら呟いた。
『何だって・・・』友嗣はその言葉に過剰に反応し、怒りをあらわにした。
『二人ともやめてよ。明日は淳平の結婚式よ。親子喧嘩なんて冗談じゃないわ』
和子が二人の口論に割って入り、一時休戦となった。
淳平の結婚式は東京でパーティー慣れした友嗣にとって全く田舎くさく思えた。式終了後、友嗣は一目散に東京に戻って行った。
その後、友嗣達は医療以外にも事業を拡大していた。インターネット会社を設立し、ネットによる医院・病院のホームページ作成、広告、宣伝、また、患者からの疑問・質問を答えるコーナー、そして医師の就職斡旋・お見合い、開業物件の紹介・仲介、開業資金の貸付け、有名病院紹介や名医紹介等であった。この事業が当たり、数年後新興市場に株式を公開することができた。そして、市場から吸収した資金で次々と新しいビジネスを展開した。医者向けのマンション販売、医療ビル・老人ホームの建設、人材派遣会社・病院・介護企業・ジェネリック薬品会社の買収等であった。
友嗣はグループ企業の代表取締役に就任していた。彼はもう患者を診察することはなかった。
しかし、友嗣の有頂天は長くは続かなかった。まず優秀な人材は退職し、新たな会社を立ち上げ、友嗣のライバルとなった。また短期間で色々な事業を展開しすぎたのか、中には赤字事業も数多く存在した。周囲の取り巻き達はその事業を正確に報告しなかった。仮に報告しても、『数年後には必ず黒字になる』と根拠無き楽観論が占めていた。
日銀がゼロ金利を解禁し、徐々に利息が跳ね上がっていった。資金繰りが苦しくなっていた。財務担当役員は決算を粉飾し、友嗣に報告した。また重役の中には会社の機密を売って私腹を肥やしたり、経理部長は不渡り手形を乱発し失踪するような事件も続発した。友嗣が気付いた時には、手のつけられない状態に追い込まれていた。あれだけいた取り巻き連中はあっという間にいなくなった。
債権者達の厳しく過酷な取立てが始まった。毎日資金繰りに奔走したが、遂に破産に追い込まれた。
債権者集会には友嗣のブレーンと自称していた連中は誰一人顔を出さなかった。彼等は我先にと退職していった。
野次と罵声の中、事情説明とこれから再生計画が発表された。
誰も耳を傾ける者はいなかった。
『貸したものを返せ!』というお決まりの怒号だけだった。
そんな光景を目にしながら、友嗣は高校時代に読んだ太平記を思い出した。鎌倉幕府を倒すために立ち上がった三人の武将、新田義貞・足利尊氏・楠木正成。源氏の家系だが、野心だらけの新田には、最初人は集まるが人望が無いために人々は去って行った。人望の厚い楠木、しかし、全く野心がなかったため、求心力を失っていった。結局源氏の流れをくむ名門の御曹司、人望も野心もそこそこ持ち合わせていた足利尊氏が倒幕に成功した。
『結局、俺は新田義貞だったのかな・・・』
友嗣はつぶやいた。そして取り巻き連中のことを思い浮かべた。
『絶好調の時は声をかけなくとも人は集まってくる。しかし俺は誰が味方で、誰が敵なのか見抜けなかった・・・』
数年後、破産手続き・会社の整理が全て終了した後、友嗣の足は何故か生まれ育った城下町へと向かっていた。
年老いた両親と淳平がやさしく迎えてくれた。
『淳平は助教授になったんだって』
友嗣は祝うように話しかけた。
『兄さんに比べればたいしたことはないよ・・・』
『いや、お前には地道に努力できる才能があるさ。ところで、昔、夜桜見物で出会った占い師を覚えているかい?』
友嗣はどうしてもこの話題をしたかった。
『もちろん覚えているよ。あの老人は占い師じゃない、ペテン師だよ。あの占い、僕には分かっていたんだ。嘘だとね。でもあの老人は僕に希望と勇気をくれたんだ。何をやっても、兄さんのように出来ない僕に、コツコツ真面目にやっていれば、きっと夢が叶うと。あの時、あの老人に“将来の夢を頭の中に浮かべてごらん”と言われた時、僕は医者になることを頭に浮かべたんだよ』
淳平はつい最近、占い師と出会ったように答えた。
『あの占い師は本物だったよ。俺はあの時、お前と別れて、また、あの老人の所に行ったんだ。そして、お金を払ってその後の人生を聞いたんだよ』
『何て言ってたの?』
『“都会で一度は大成功を収めるけれど、その後おぬしは破産する。何故か分かるか?おぬしには事業を成功させても、それを維持するだけの力量が無い。それに、せっかく持って生まれた品格を汚す相がある”だとよ』
友嗣は笑いながら涙を流した。
『友嗣、お前はこれで終わった訳じゃないぞ。わしもそろそろ引退しようと思っているんだ・・・。後を継いでくれないか?』
父・義嗣は息子の友嗣の肩に手を廻しながらやさしく話しかけた。
『・・・』友嗣は無言だった。しかし、涙を流しながら、頭を縦に振った。
数年後、友嗣は派手さも気負いもなくなり、設楽醫院の品格を持った8代目院長を務めていた。
江戸川区医師会・会報誌・江戸川2007年3月号に記載