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随筆 第12作 日本人と仏像

『ご隠居さん、明けましておめでとうございます』
『その声は八つぁんと熊さんだね。中へお入りよ』
『それじゃ遠慮なく上がらせてもらいますぜ』
『お前さんたちに遠慮なんていう言葉があるのかい?』
『そりゃそうだけど・・・。おや、そこにいるのは耳鼻亭診蔵(みみはなていみるぞう)さんですね』
『こんにちは、八つぁんに熊さん。ちょうど今、ご隠居さんと去年の日本について話していたところなんだよ』
『去年はとんでもない年でしたね。あっしはね、11っていう数字が不吉な数字のような気がするんですがね。去年は2011年、あの大震災が3月11日、確か2001年米国で起こった同時多発テロが9月11日だったっけ?』
『熊さん、それは強引なこじつけじゃないの?』
『熊さんは、やっぱり日本人だね・・・』
『ご隠居さん、それはどういう意味で・・・?』
『大昔の日本人も天変地異の原因を何かと結びつけたと考えたからだよ。例えば神様の怒りと考えていたんだ。だからその怒りを鎮めるために、神の使いと考えて、蛇や狐、猿などの動物を祀ったり、時には生け贄を捧げることもあったんだよ。それが平安時代になると、天変地異の原因は怨霊のせいだと思い込んでね、その崇りを鎮めるために神社を造営したんだよ。例えば、菅原道真を祀って天満宮を造り、また神田明神の役割の一つに、平将門の崇りを鎮めことがあるんだよ。京都の祇園祭もその一つさ』
『さすがご隠居さん、飯のたねにならないことをよく知ってますね』
『大きなお世話だよ。ところでお前さん達、もう初詣に行ってきたのかい?』
『あっしは神社に行ってきましたぜ』
『ところで、熊さん、お盆はどこへお参りするんだい?』
『お墓参りだから、当然お寺ですよ』
『なるほど。耳鼻亭診蔵さん、あなたはクリスマスを祝いますか?』
『ご隠居さんが言いたいことは分かりますよ。クリスチャンでもないのに“メリークリスマス”と言って、家族と一緒にクリスマスケーキを食べますよ』
『本当に日本人は宗教に対していいかげんだね』
『日本人にとって仏教って何だろう?』
『日本人の多くは仏教徒ではないですか?』
『そうだね。ところで仏教って、もともとインドの宗教なのは知っているよね?』
『外国の宗教がどうして、日本の宗教になったんでしょうかね?』
『それじゃお前さん達、ここにお座り。これから仏教について話をしてあげるからよくお聞きき』
『今年も正月早々、ご隠居さんの御高説を聞くこととなりましたぜ』

 紀元前5世紀、インドに釈迦族が住んでいた。その一族の王の息子にガウタマ・シュダールタという青年がいた。ある日、彼は「生きること」「老いること」「病むこと」「死ぬこと」これが生きていく限り避けられない四つの苦だと考えた。これが「生老病死」。これに、愛する人と離別しなければならない苦(愛別離苦)、憎む者と会わねばならない苦(怨憎会苦)、求めても決して得られないものを求めてしまう苦(求不得苦)、人間が生きるということそのものから来る苦(五陰盛苦)の四つの苦を加えて“四苦八苦”の完成。
 彼は29才の時出家し、ブッタガヤの菩提樹の下で坐禅を組み瞑想を続け、35才の時、ついに悟りを得た。仏教では、悟りを得た者を「ブッタ」と呼ぶ。彼の教えは弟子達によって広められ仏教となる。
 仏教には創世神が存在しないし、彼自身が編纂した経典があるわけでもない。もともと彼が目指したものは、輪廻転生のサイクルから逃れ、四苦八苦から逃れるための悟りを得ることで、それを真理と捉えるならば「人は何のために生きているのか」を必死に知ろうとすること、まさに哲学そのものである。

『へぇ~、ご隠居さん、仏教が哲学とはね。あっしにはお釈迦様の教えなど全く分かりゃしませんぜ。せいぜいご先祖様を祀る宗教だと思っていますぜ』
『仏教の根本概念は無常観だよ。無情ではなく無常。すなわち常なるものがないということ。形あるものは全ていつかは壊れ、生きとし生けるものは、全ていつか死んでいくということだよ。だから物や人に執着することが不幸を生み出す訳ね』
『なんだかあきらめることを勧められているようで、ちょっと抵抗があるね』

 その後仏教は中国・東南アジアそして6世紀頃日本にも伝わった。
 4世紀頃の日本では各地で八百万の神が崇拝され、祈祷師が大きな発言力をもっていた。大和朝廷の実力者・蘇我氏は日本を統一するためには一つの宗教でまとめる必要があると考え、仏教を登用した。そこで排仏派の物部一族を滅ぼすと、法興寺(飛鳥寺:日本最古の寺)を建立した。そして、日本全国へ仏教が普及した。

『ところで、熊さん。初詣で誰にお願いをしたんじゃ?』
『それは天神様だよ』
『八つぁんは?』
『観音様だよ』
『診蔵さんは?』
『大師様です』
『天神様、観音様とか大師様って一体誰だと思うかね?』
『仏様の兄弟じゃないの?』
『馬鹿を言うんじゃないよ。それじゃ教えてしんぜよう』
『え・・・。まだ話が続くの?』
『ちょっとだから、耳の穴かっぽじってよくお聞き・・・』

 紀元前327年にマケドニアのアレキサンダー大王がインドに侵入した。紀元前3世紀、インド全土に仏教が広められると、権力者達の援助で各地に塔門が建てられ、僧侶も出現した。普通の大衆にとって、何もないところで瞑想にふけることはなかなか難しい。そこで、インドに流入したギリシャ人やペルシャ人が、ガンダーラ美術を起こし、ギリシャ彫刻から釈迦像を作るようになった。初期の釈迦像はギリシャ人の顔をしていた。これが仏像の原点である。
 仏像にもランキングがある。頂点に立つものは「如来」、次に「菩薩」、そして「明王」、「天」と続き、最後に「羅漢・高僧」の順になる。
1、如来[真理にめざめ、悟りを開いた仏]
 釈迦如来(お釈迦様の仏像)・薬師如来(医療を中心にしてのご利益)・阿弥陀如来(極楽浄土への案内人・鎌倉の大仏)・大日如来(太陽を神挌化)・毘盧遮那如来(奈良の大仏)
2、菩薩[修行しながら苦しく人を救う:サンスクリット語(古代インド語)では修行僧という意味]
 弥勒菩薩(釈迦の次に悟りを開くといわれている)・観音菩薩(俗に言う観音様)・地蔵菩薩(俗に言うお地蔵様)。その他には、文殊菩薩(知恵をつかさどる:三人寄れば文殊の知恵)・普賢菩薩(修行をつかさどる)。
 如来は厳しい語り口で教えてくれるけれど、理解できない人がいる。すると菩薩が優しく教えを説いてくれる。菩薩の方が庶民にとって如来より身近な存在である。
 仏像をみても、如来が坐っているのに対して、菩薩は少しでも人々を早く救えるように、立った姿で作られている。また、腰をひねったり、片足を前に踏み出している像もある。その他にも菩薩は美しい布をまとったり、多彩なアクセサリーを付けていることもある。これは釈迦の出家前の王族時代の姿を表していて、我々俗人により近い存在として人気が出た。観世音菩薩は優しい顔で作られ、超人気になった。さらに、人々の欲望で菩薩は変身を遂げるようになり、千手観音(救いの手の数が1000手)・十一面観音(世界中を見渡す11の頭)・京都の三十三間堂の千体観音(千体の手を合わせると千手観音像で、全てを救う)・大船白衣観音・高崎白衣観音のように巨大化したものもある。いずれも人々を救おうとする姿を現している。
 地蔵菩薩(人々がお寺にお参りに行くのではなく、人々を助けるために自ら出向き、駄目な人ほど救ってくれる。地獄に落ちた人まで救ってくれる。親より先に亡くなった子は、親不孝の責め苦を受けるといわれている。その地獄の鬼から子供達を救う。そのため、子供に似た丸い形で作られる。このように地蔵菩薩は庶民のささいな願い事を聞いてくれたり、身代わりになってくれたりする。
 身代わり地蔵・とげ抜き地蔵・子育て地蔵・そうめん地蔵・縛られ地蔵・化粧地蔵等、全国に色々な地蔵菩薩が出現することになった。
3、明王[密教で大日如来の化身・分身。武力を持って力尽くでも人を救うといわれている]
 不動明王を中心として、東に降三世明王、南に軍茶利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王を配置。明王が救うのは難解の衆生、つまりいくら言っても聞かない人。明王は煩悩を剣で切りさき、炎で焼き尽くし、道に迷う者であれば縄で縛ってでも救う。怒りで仏教界を護る。
平安時代に弘法大師が中国で密教を学び、不動明王を持ち帰った。
4、天[インドの神話に出てくる神様:サンスクリット語で神(ラーヴァ)]
 ヒンドゥー教の神々で、例えば最強の戦士(インドラ)・太陽神(アスラ)・宇宙を作った創造神(ブラフマン)などがある。日本では、インドラは帝釈天、アスラは阿修羅(帝釈天と戦争をするが、常に負ける存在。この戦いの場を修羅場“しゅらば”と呼ぶ)ブラフマンは梵天など、元々いたインドの神様で仏教を護るボディガードとして取り入れたのが天である。菩薩や如来より、人々に身近で親しみやすかった。
 天の最高位は四天王と呼ばれる。北に多聞天・西に広目天・南に増長天・東に持国天を配置し、如来・菩薩を守ると言われている。
 その他に足の速さの形容の韋駄天、地獄の王の閻魔天、財宝を授けてくださる弁財天、商売繁昌の恵比寿天、招徳人望の大黒天などがある。多聞天は戦国時代に大人気となり、毘沙門天と名前を変えた。上杉謙信が信仰したことでも有名だ。
5、その他、羅漢・高僧(弘法大師・鑑真・空也等)なども仏像となっている。

『こうしてみると、お前さん達のような人々のご利益主義が、多種多様な仏像を生んだとも言えるね…』
『そこがまた日本人の良いところじゃないですか』
『おっと、耳鼻亭診蔵さんが真面目な話を始めたよ』

 日本の歴史において、権力者と宗教がぶつかり合うことはあった。例えば、大和朝廷では、崇仏派の蘇我氏が排仏派の物部を滅ぼし、鎌倉幕府は日蓮を配流し、織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちし、江戸幕府はキリスト教を弾圧した。明治政府は神道を国教とし、神仏分離が打ち出され、これをきっかけに寺院や仏像が破壊されたり、安く売り出される廃仏毀釈が起こった。しかし、現在では、日本国憲法において、信仰の自由は認められている。
 民間のレベルでは、もともと日本には“八百万の神”といって、多くの神様がいると思われている。それ故に、古来より日本人はある意味でお互いの宗教を尊重し合い、宗教間での争いは避けている。だから、神社・寺・教会が混在しても違和感を持たないし、その行事に気軽に参加し、主催側もその参加者に寛容だ。

『診蔵さん、こんなに日本人は色々な神様を祀って祈っているのに、何故あんな大震災が起こったんでしょうかね?あっしはね、恨み言の一つでも言いたい気分ですぜ』
『八つぁん、確かにそうだね。でも、いま僕は全ての神様に今の日本を助けてくれとは頼まないさ。しかし、全ての神様に我々の敵にはならないで欲しいと願っているんだよ』
『・・・・・・・・』
『ご隠居さん、正月早々高尚な話をありがとうございます。でもね、あっしらにはそろそろ耳鼻亭診蔵さんのつまらない小咄が聞きたいですぜ』
『診蔵さん、一つ何か小咄を話してよ』
『それでは一つ』

“昨年のプロ野球は、ソフトバンクが中日をくだして日本一になったね。名古屋では何処も(ドコモ)・何処も(ドコモ)くやしがっていましたよ・・・”

『お後がよろしいようで・・・・・』

紀行文 第1作 近江・京の旅

 私は小学生の頃より写真を整理し、アルバムを作ることが好きだった。その趣味を生かして、大学の卒業記念アルバムを作成した。
友人達が驚いたのは、合格発表の写真が載っていたことであった。
『よく、こんな写真を撮っていたね』
『発表前に合格する自信があったのかい?』
『その時から、卒業アルバムを作る計画をしていたの?』

 最近の私の代表作は「文京区少年軟式野球連盟30周年記念誌」である。A4版で200ページを超える力作なのだ。もちろん家族アルバムは当然作る。子供が生まれるとその数も増加した。家族旅行の時などは、まず旅行の日程表から始まり、地図・航空券・入園券・パンフレット・絵葉書・レストランでは持ち帰り可能なコースター・メニュー・シェフやソムリエとの記念撮影、日本料理なら箸袋まで持ち帰る。そして宿泊したホテルの絵葉書、また外国ならその国の全種類の紙幣とコインを集める。当然写真は100枚以上撮影する。帰宅すると30cm×30cm位のフエルアルバムを用いて、約60ページ位の記念アルバムを製作する。子供から『お父さん、アルバムを作るために旅行しているの?』とよく言われている。最近子供達は大学生と高校生になり、一緒に旅行してくれなくなったので、旅行のアルバムのページ数は減った。しかし、学会案内状と懇親会の写真、色々な忘年会・新年会の写真、妻との小旅行や、お洒落なレストランでの当日食したメニュー・ワインのラベル・シェフやソムリエとの記念写真を貼るようになった。すると、1年間で30cm×30cmの約100ページのアルバムが一冊出来上がる。
 或る日妻があきれ顔で私に問いかけてきた。
 『どうするの。こんなにアルバムを作って?昔、百科事典を応接間に並べるのが流行したことがあったわ。でも、今はどこの家庭も百科事典を買わないわよ。インターネットで調べれば分かるからね』
  『そのうちアルバム王子として、アルバム協会から表彰されるかもな』と私が冗談を飛ばすと、妻はすかさず『えっ、王子?アルバムおじさんでしょ・・・・・・』と嗜めた。
 私は無言だった。しかし、心の中で思った。
 “君だって、僕が作った昔のアルバムを開いて、若かりし頃の自分自身や幼かった子供等を眺めて、懐かしんだりして結構楽しんでいるじゃないか”
 すると妻がまた話かけてきた。
 『前から一度聞こうと思っていたんだけど、私と付き合う前のあなたの大学時代のアルバムがないのよね。何故?』
 『え・・・っ』私は一瞬声がつまった。しかし、できるだけ表情変えずに『たまたま写真に興味がなかった時代があったんだよ。もし撮っていたとしても紛失してしまったのかもしれない・・・・・・』と冷静に答えた。
 妻は賢いのか、それとも興味がなかったのか、それ以上私を追求しようとはしなかった。
 最近、後輩の女医さんに、私のアルバムのことを話すと
 『先生、変よ。今どきデジカメで撮った写真をプリントアウトする人なんていないわよ。アルバムなんか作ったら部屋が狭くなるわ。今はコンピューターやCDに保存するものよ』
 『僕はアナログ人間だからね・・・』と私は答えたが、何故、皆、アルバムの素晴らしさが分からないのだろうか?あ~、嘆かわしい限りである。
 “思い出を記録に残さねば!”この思いが私を紀行文に向かわせた。アルバムも良いが、紀行文もきっとおもしろいかもしれないと思って、今回は文章でアルバムと同じものが作れるか試してみることにした。

 私と妻は歴史好きで、旅行は外国でも日本でも歴史のある町を訪れることが多い。それともう一つ、実は妻が人前でもう水着になることを拒否しているので、ハワイ等海辺のリゾートへの旅行は好まないらしい。
 数年前から、JR東海のテレビCMで京都の名勝が紹介されるようになった。以前、私がピアノで弾けた“My Favorite Things”のテーマ曲と共に、春は桜、秋は紅葉が印象的に瞳に焼き付く。そして“そうだ京都に行こう!”とのキャッチフレーズに乗せられて、私達は京都の旅行をつい計画してしまうのである。
 東海道新幹線は「のぞみ」・「ひかり」・「こだま」がある。現在、「のぞみ」の本数が圧倒的に多く、名古屋の次は京都に停車する。しかし、友人から『滋賀県もなかなか良い所がありますよ』と勧められて、今回は近江を中心とした旅をすることにした。
 日程は3月21日(春分の日)、米原で下車し、彦根城→安土城跡→近江八幡→琵琶湖大橋→堅田→坂本→大津(琵琶湖ホテルで宿泊)
 翌日、3月22日(木)は三井寺→大津宮趾→比叡山延暦寺→上賀茂神社→清水寺→京都駅

彦根城

彦根城は今年築城400年になる。その記念祭りと祝日が重なって、観光客が多かった。私達はいつも通りに写真を撮影しながら天守閣へと昇っていった。通路は混み合っていて狭い急な階段には恐怖感を覚えた。順路が決められているので、途中で戻るわけにもいかず、流されるように進んだ。しかし、なかなか天守閣から降りることができず、“こんなことなら昇らなければ良かったな”と思った矢先、私の前にいたおばちゃんが突然叫んだ。
『洒落にならへんわ・・・。うちらバスの時間があるんやで。このままやと出発時間に間に合わんのとちゃう。だいたい入り口ですぐ見学できると言ってたやん。こんなんぼったくりやで。入場制限とかしんとあかんの・・・。時間に遅れたらどうしてくれるん・・・。』
関西のおばちゃんはすごい迫力で係員に文句を言っていた。
 私の心の中では頷きつつも、そこまで言わなくてもという気持ちも混在した。
 私達は何とか天守閣を降りた。城から出て、帰る途中で“埋木舎”という名の屋敷がある。井伊直弼が部屋住み時代に過ごした家だ。直弼には多くの兄達がいたため、藩主になるのは不可能と周囲も自分自身も思っていた。そして、悶々とした生活を送っていた。しかし、多く兄達は出家・養子として出され、家督を継いだ藩主と直弼が残された。その藩主が病気で急死した。そこで直弼が藩主となった。彼が埋木舎の屋敷で育てた教養が役に立つことになった。その後、名君と呼ばれ、遂に幕府の大老にまで昇りつめた。しかし、1858年に多くの反対派勢力を粛清し、安政の大獄と呼ばれた。そして1860年桜田門外で暗殺された。
 井伊家と言えば、徳川四天王の一つである。赤い甲冑を着けて、多くの戦場で家康のために勇猛果敢に戦った。その功績を認められて、京都の目付役としても近江に領地を与えられた。しかし、約260年後、大政奉還され、薩長連合年と幕府軍が伏見・鳥羽で戦った。彦根藩は真っ先に薩長に寝返った。まさかの裏切りである。墓の下で家康は『何のため井伊家に近江の領地と与えたのか』とさぞかし憤慨しているだろう。しかし、時代の先を読む力にたけていたのかもしれない。
 近年、日本人が古来より大切にしていた義理・人情を重んじては、会社は生き残れない。現在、ヒルズ族と呼ばれる人間達に似ているとは思い過ぎか?私は忠義を重んじ、不器用にしか生きられなかった会津藩に心が惹かれている。

安土城趾

 織田信長は1979年(天正7年)日本で最初に天守閣を備えた安土城に移り住み、天下布武の名のもと、全国統一を目指した。しかし、1582年明智光秀が本能寺で信長を討ち、その後半月たらずのうちこの城も焼失し、わずか3年で幻の城となった。何ともったいないことか。この城の天守閣をあえて「天主」と呼び、その5階は八角形となっていることで有名である。
 私が『天守閣を見てみたかったな』と呟くと、
『お客さん、この先に天守閣を再現した記念館がありまっせ』と運転手に言われて、私達は記念館を訪れた。
  天主5階は仏教の世界観による理想郷を象徴し、宇宙空間を表す八角形、約30坪の空間で、内部は金箔の壁と釈迦説法図の襖絵に囲まれた総朱漆塗りとなっている。
  時代を変えようとした男の夢・理想が、今はのどかな田園に囲まれて眠る安土であった。

近江八幡

 近江商人で有名な町である。その街並みが今でも保存されている。
近江商人出身で現在、日本の代表的な企業は数多くある。例えば、ワコール・伊藤忠・丸紅・トーメン・高島屋・大丸・西武・日清紡・日本生命・ヤンマー等である。
 その出身者に多くの逸材を輩出しているのは、地の利・商才にたけた気質・お互いの情報や刺激、そういうものが背景になっているのだろうか?
 商人と言えば、中国の南部に住む客家(ハッカ)も有名で、華僑として中国の内外でも経済的に活躍し、政治的にも孫文や鄧小平などの多くの指導者を輩出している。

琵琶湖大橋

 昭和39年琵琶湖全長1350mの橋が架けられた。その大橋を渡ると、琵琶湖西岸に着く。その湖畔に休憩所がある。琵琶湖には竹生島という人が住む島がある。そこから竹生島は見えなかったけれど、私は新平家物語(吉川英冶著)のある一場面を思い出した。
 木曽で源義仲が挙兵した。平家はその反乱を鎮圧するために北陸へ向かった。その途中琵琶湖に到着した。平家の公達たちは、各々得意な楽器を持って竹生島に舟で渡り、優雅な曲を奏でた。平家はもう武士ではなく、貴族化してしまった。その後、史上名高い火牛の計で、4万の平家軍は倶利伽羅峠で大敗北を喫した。
 琵琶湖を後にし、大津へ向かう予定だったが、まだ時間に余裕があるとのことなので、堅田と坂本に寄り道してもらった。

堅田

 新平家物語によれば、堅田党と称した湖族がいた。水辺に住んで、その水路権をにぎり、運輸や旅人からその生命と物資との保険料ともいうべき私税を取り上げていった。その首領に反っ歯の小男がいた。山下義経と名乗って暗躍した。都からわずか七、八里たらずの距離で、義経を名乗って、都で火付け・強盗・辻斬り等の悪事を繰り返し、源氏の評判を落とした。現在は湖賊の面影も無く、地元出身のタクシーの運転手も偽義経の話を知らなかった。

坂本

 戦国時代、この土地を織田信長から与えられたのは明智光秀だった。坂本は本来比叡山延暦寺の僧侶が引退した後、暮らした場所であった。信長は延暦寺焼き討ちの時、当然この土地も攻撃した。今は多くの寺が復活し、幅の広い道には石灯篭が並んでいて、到着した時には、ちょうどその灯篭に火が入り幻想的だった。
 夕方6時に大津に到着し、琵琶湖ホテルに宿泊した。フランス料理店を予約した。レストランからの琵琶湖の眺めは夜なので、何も見えないかと思ったが、遊覧船の灯りや、湖畔には大きな噴水が昇り、その水に色々な光があてられていた。スイスのジュネーブのレマン湖で見た噴水を思い出させた。
『ちょっとロマンチックね・・・』
妻は御満悦のようだった。
 翌朝、部屋に届けられている新聞が、彦根城の入場制限を伝えていた。“あの関西のおばちゃんの怒りパワーが入場制限を行わせたのかな”と私は思った。

三井寺

 この寺の見学は今回の旅の主目的の一つでもあった。三井寺の正式名は、天武天皇より園城(おんじょう)の勅額を賜り「長等山園城寺」と称する。俗に「三井寺」で呼ばれたのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれたからである。三井寺は天台寺門宗の総本山で、数多くの古典の作品に出てくる寺であった。私は高校生時代から一度訪れてみたいと思っていた。
 境内に弁慶の引き摺り鐘がある。山門(延暦寺)との争いで、弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げた。撞いていると“イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は『そんなに三井寺に帰りたいのか!』と怒って鐘を谷底へ捨ててしまったという逸話が残っている。
 三井寺は規模といい風格といい、古いながらも堂々としたたたずまいで、色々な古典作品の中に私を投影させてくれた。

大津宮跡

 645年中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足は蘇我入鹿と謀殺し、蘇我氏による王権私物化を天皇家に戻すクーデターを遂行した。これを大化の改新という。軽皇子が即位し孝徳天皇となり、都を難波に移した。しかし、655年孝徳天皇が没し、皇極上皇が重祚し、斎明天皇として再即位した。そして、都を飛鳥に再び移した。661年斎明天皇が没すると、天智天皇が即位した。663年白村江の戦いで日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍に大敗すると、天智天皇は唐が日本に攻め込んでいると思い、都を大津に移した。これが大津宮の始まりである。天智天皇が国際的な危機を背景にすすめた急進的な「庚午(こうご)年籍」全国民の氏姓を記録する戸籍を政策の制定でその絶頂を極めた。朝廷が全領土において官僚機構を確立し、一君万民の支配を固めた。天智天皇の内政改革は、一方では大きな歪みを産み、地方豪族や民の不備が蓄積されていた。
 現在の日本でも、改革・グローバルスタンダード・民営化等のパフォーマンスを示した前内閣が約5年間の政権担当を終了した。その後、市場原理主義・営利主義等による競争社会や格差社会等の問題が起こっている。
 天智天皇の死後、弟の大海皇子と息子の大友皇子が対立し、壬申の乱が起こった。人望の厚い大海皇子が勝利し、天武天皇として即位した。そして、都を飛鳥に戻した。その後、大津宮は荒廃した。現在では発掘が進められていて、ごく一部のみが保存されている。
 滅びた大津宮を偲ぶ柿本人麻呂の歌碑と私達の心情が重なった。

比叡山延暦寺

 1200年前比叡山に大教大師最澄が開山し、延暦寺を建立した。その後、多くの僧侶達が修業を重ね、悟りを開いた。有名僧侶として、法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)・日蓮(法華宗・日蓮宗)・栄西(臨済宗)・道元(曹洞宗)が修業し、各々の信念に基づいて新しい宗派を設立した。
 私は中学校3年生の時、修学旅行の際、この寺を訪れた。その時、僧侶から説教を聞いた。
“一偶を照らす者は、即ち是国の宝なり”
『何も人を押しのけて偉くなることはないよ。このグループやクラスなど世の中から見れば小さな集団ではあるが、そのような一偶を照らせる人物こそ重要な人間で国の宝なんだよ』
 私の人生観を変えた言葉だった。
 この寺に歴史上大きな影響を与えた男がいた。その男の名は織田信長だった。ある調査によると、現在の日本人に『歴史上最も好きな指導者は?』と問うと、一番が織田信長であったらしい。
 信長は狂人と思われてしまう個性と指導力を持っていた。彼は政治に口をはさむ僧兵達を絶対に許すことはできず、特に越前・朝倉氏と結託し、信長を脅かした延暦寺には激しい怒りを持っていた。遂に1571年延暦寺に焼打ちを決行した。僧侶以外にも女・子供までも殺戮した。約4,000人を葬り去った。この世の地獄だった。その後、延暦寺は江戸時代に徳川家光によって再建された。
 その約450年前、やはり同じように時代の流れを変えた男がいた。平清盛である。清盛が若き頃、北嶺(延暦寺)南都(興福寺)の僧兵達は御輿を担いで入洛し、強訴した。御輿とは神様が乗る輿・動座である。誰も手を出せなかった。その御輿に弓を引いて僧兵達に立ち向かった男こそ平清盛であった。その後、清盛は藤原貴族政治に幕を降ろした。
 私は根本中堂から立ち去る時に、再び“一隅を照らす者は即是国の宝なり”という言葉を心に刻み込んだ。
 タクシーは峠を越えて京都に入った。そして、今春JR東海のCMで紹介されている上加茂神社へ向かった。

上賀茂神社

 この時期、折り良く特別拝観が行われていて、宮司さんより説明があった。
正式名を山城国一ノ宮・賀茂別雷神社といい、世界文化遺産に登録されている。神代の者、本殿の北北西にある秀峰神山に御降臨になった。しかし、一度、天にお戻りになってしまった。しかし、二葉葵を結んで祈祷すると、678年に現在の本殿に御鎮座になった。それ故にこの葵は重要な意味を持つことになった。その後、人々の信仰を集め、特に皇室の御崇敬は歴代にわたり、行幸啓は枚挙にいとまなく、国家の重大事には、必ず奉幣御祈願があった。
 毎年5月15日 賀茂祭(別名:葵祭)が行われている。6世紀頃、欽明天皇の御代に天下風雨順ならず、庶民大いに嘆いたので、勅してうらなわしめ給うたところ、賀茂大神の崇りであると判った。そこで馬に鉾をかけ、走らせまつりの祀を行った結果、五穀成熟して天下泰平となった。このことにより、毎年国家的行事として祭が行われるようになった。神前に葵を献じ、全部の社殿には葵を飾り、奉仕員全て葵を着けるので葵祭ともいう。
 また徳川家とも関係が深い。テレビ番組の水戸黄門で、格さんが『控え、控え!この紋所が目に入らぬか‥‥』と言って、懐から印籠を取り出す。その印籠には三つ葉葵の紋が入っている。徳川家の三つ葉葵の紋はこの神社の二葉葵と関係があった。
 参拝が終わった後、私達と運転手は蕎麦屋に入った。その店が特に有名だった訳ではない。有名店を捜す時間がもったいないような気がした。次の目的地があったからだ。蕎麦屋で私は4年前に会社が倒産してタクシーの運転手になったことや、京都観光文化検定試験3級を3回目でやっと合格したことを知った。それで彼がまだ京都に不案内であることに合点がいった。食後、私は割り箸袋を財布にしまい込んで、会計を済ませた。

清水寺三年坂

 新幹線の時間が迫っていたので、清水寺の拝観は簡単に済ませ三年坂へと向かった。約100m位歩くと、六々堂という名の陶器の店がある。私達は京都に来ると必ずその店に立ち寄る。今回は、私は風神雷神の絵が入っているペアの湯呑みを、先日裏千家から茶名をいただいた妻は記念に抹茶茶碗を購入した。
 あっという間に時間が経ち、私達はあわててタクシーに乗り込んだ。
京都駅に向かう途中『昔は市電が走ってたんですわ』と運転手が話しかけてきた。
 『東京も昔は走っていたんですが、東京オリンピック開催のため、交通渋滞等のことを考えて、廃止したそうですよ。でも一路線は残しています』
 『京都も市電を復活させる話があるんですわ』
 『何処を走らせるんですか?』と私が驚いたように問いかけると、
 『そりゃ当然、道路の真ん中でっしゃろ』と実に馬鹿馬鹿しい答えが返ってきた。
 妻は笑いを噛み殺していた。その後、私は何も喋らなくなり、タクシーは京都駅に到着した。
 東京へ向かう新幹線の中で、私と妻は同じように今回の旅を振り返った。
  『あの運転手さんときたら、のんびりとした性格で、せっかちなあなたとは大違いだったわ』
  『確かに・・・。それにまだまだ素人だよ』
  『そうね、ガイドブックや立看板を見ながら、説明してたわね』
  『それに宮司さんの説明にも必死に耳をそばだてていたよ。一体どっちがガイドか分からなかったさ』
  『でもね・・・。何となく憎めないのよ・・・。思わず笑っちゃうの、あのスローテンポな物腰・・・・・・』
 妻の言葉に私も同感した。

 関西は聖徳太子の時代から新撰組まで、歴史の桧舞台であった。どの時代の引出しを開けても、興味深いものが出てくる。それを思うと、また関西の旅を計画したくなった。

江戸川区医師会・会報誌・江戸川2007年5月号に記載

 

紀行文 第3作 大和・飛鳥の旅

 JR東海のテレビCMで奈良への旅情を誘うシーンが放映され、素敵な音楽とともに法隆寺の境内と興福寺の阿修羅像が私の目に焼き付いた。奈良の思い出といえば、約35年前の中学の修学旅行と約25年前の学会発表、そして高校時代に読んだ亀井勝一郎著「大和古寺風物誌」である。しかし、亀井勝一郎は小林秀雄・桑原武夫・天声人語等と共に、当時現代国語の試験によく出題されていたため、受験生にはよく読まれていた。私も受験対策のために読んだ。
 この年頃になって、私は歴史や古典に純粋な興味を感じて、聖徳太子・天智天皇・天武天皇・持統天皇の時代の本を読んだ。万葉集が大好きな妻とよくその時代の話をするようになった。そこで今回、大和・飛鳥の旅をすることにした。

日程

 7月21日に観光タクシーで:橿原神宮→高松塚古墳→橘寺野→石舞台古墳→飛鳥寺→藤原宮→法隆寺
(夜のライトアップ)人力車で:国立博物館・興福寺・猿沢の池・東大寺・浮見堂等。

橿原神宮 皇紀とは?

 神武天皇を祭っている神社である。折からの小雨で閑散としていたが、それがかえって、この神宮の威厳を感じさせた。大きな鳥居をくぐって砂利道を歩き、大きな門にたどり着いた。その門の入口に紀元二千六百十七年と書いてあった。
『あら、この年号、おかしいわ。今年は2007年じゃない?』
 妻は不思議に思った。
『その年号は皇紀なんだよ。日本独自のもので、神武天皇が即位した年が1年になっているんだよ。以前零戦のゼロはそこから名付けたっていう話をしたよね。零戦が誕生したのは昭和15年で皇紀2600年なんだ。その末尾をとって、ゼロ式戦闘機と言う訳だ』
私の得意な戦闘機の話題に結びつき、語りに熱が入り始めたところで、
『私ね、全く戦闘機に興味がないの』
妻は足早に門をくぐって行った。

高松塚古墳:カビが壁画を破壊

 タクシーで飛鳥地方を回ると、こんもりとした小さな丘を数多く見かける。その多くが古墳らしい。その一つが高松塚古墳である。高松塚古墳を有名にしたのは壁画である。この壁画のお陰で飛鳥時代の文化や生活習慣を思い浮かべることが出来る。現在、その壁画にカビが生え、大問題になっている。

橘寺 偉人は馬小屋で生まれる?

 聖徳太子が生まれた場所である。太子は馬小屋で生まれたとされているが、現在では寺として存在している。歴史上の人物で、馬小屋で生まれた有名な人物がもう一人いる。イエス・キリストである。私は約20年前イスラエル(エルサレム)の学会へ出席した時、キリスト生誕地即ちベツレヘムにも足を伸ばして訪れた。今は教会になっている。この二人の偉人が馬小屋で生まれた話は偶然であろうか。いや、私は違うと思う。
 1549年、日本にキリスト教が伝来したと社会科の授業では教えている。確かにフランシス・ザビエルが来日し、一般庶民にキリスト教を普及させたのは1549年であった。しかし、私はキリスト教がその前に伝わったと考えている。
 聖徳太子信仰が高まったのは平安時代である。それゆえ現在、聖徳太子として描かれているのは平安時代のものと言われている。
 313年、ローマ帝国コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認した。325年ニケーア公会議(宗教会議)を開き、アタナシウスが後に確立した三位一体説を正統協議として、他の派を異端とした。その後もしばしば公会議は開かれ、さまざまな学説が異端にされた。その中で5世紀に異端とされたネストリウス派はペルシアを経て、中国に伝わり、景教と呼ばれた。この景教が日本に伝わったのではないか。その当時は平安時代で聖徳太子信仰が起こっていて、偉人は馬小屋で生まれたという話を作ったのかもしれない。
 芥川龍之介の作品『邪宗門』は平安時代にキリスト教が伝わっていたかのように思わせる。しかしこの作品は未完であるため、はっきりと断定はできない。私は芥川龍之介に最後までこの作品を書き上げて欲しかった。

石舞台古墳 墓の主は?

巨大な岩が積み上げられている中心は空洞になっていて、石棺を思わせる。この古墳は蘇我馬子の墓とされている。蘇我馬子は巨大な権力を手に入れ、次の大王(天皇)の決定権も思いのままにした。馬子・蝦夷・入鹿の三代にわたって、日本の政治を牛耳った。しかし645年、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足によって入鹿が殺害され、クーデターが成功した。そして大化の改新の詔を発した。

飛鳥寺 日本発の仏教寺

 蘇我馬子が建立した寺である。当時の日本は朝鮮半島の王朝と親密に交流していた。百済との親交派であった蘇我馬子は仏教を用いて国を治めるようにした。しかし、神道(日本民族の伝統的信仰)を重んじた物部氏と激しく対立した。馬子は物部氏を滅ぼし、推古天皇の摂政に聖徳太子を推挙した。そして、百済から多く技師を招いて日本初の仏教寺を建立した。太子は疲弊していた民にこれ以上の負担を課すことに反対だったが、まだ馬子に意見を言える立場ではなかった。太子はその後冠位十二階や十七条憲法を作って、その実力・人望・名声を上げていく。曽我氏は次第に太子の影響力に不安を抱くことになった。そして太子の死後、悲劇を生むことになるとは、太子もこのときは全く気づかなかった。

藤原宮跡 天武・持統夫妻の愛の結晶を藤原不比等は・・・

 日本の古代中央集権国家・天皇制度を確立したのは天智天皇・天武天皇・持統天皇と言っても過言ではない。645年の大化の改新後667年、大津に都を移した。この遷都には意味があった。663年日本・百済の連合軍は白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に大敗を喫した。天智天皇は唐が日本に攻めてくると思い、各地に陣地を築き、防衛しやすい大津に遷都した。そして唐の使者に「日本は天皇を中心にした中央集権国家であり、簡単には滅ぼせないと」と思わせた。そのため、自分の理想とする国家を作るため、多くの政敵や自分より人望のある者を次々と排除した。
 自分の実弟・大海人皇子(後の天武天皇)の忠誠心にさえも疑いを持ち、大海人皇子の最愛の人・額田王を自分のものにすることを受諾させ、自分の娘・大田皇女と鸕野讚良皇女(後の持統天皇)を妻として迎えさせた。その後、天智天皇は病に倒れ、息子の大友皇子を天皇にさせようとしたが、天智天皇の死後、大海人皇子は吉野で挙兵し大友軍を各地で破った。いわゆる壬申の乱である。大海人皇子は大津京に火を付け、都を飛鳥に戻した。大海人皇子は天武天皇として即位し、天智天皇の仕事を引き継ぎ、中央集権国家を更に確固たるものにした。鸕野讚良皇妃は更に政治的・実務的にも優秀で、天武天皇から信頼され、彼の右腕としても期待されていた。皇妃が病気に倒れた時、天皇は彼女の病の回復を願って薬師寺を建立した。その御利益があってか皇妃の病気は治癒した。その後、二人は新しい都の建設を計画した。それが藤原京である。しかし天武天皇はその都の完成を見ることなく、崩御された。皇妃が持統天皇として即位し、都を藤原京に移した。
 壬申の乱後、藤原氏は干された。しかし、持統天皇のおかげで藤原不比等は頭角を現した。それにもかかわらず持統天皇の死後、不比等は藤原京から平城京に遷都するように元明天皇に進言した。そして、藤原京の建造物は解体され、資材として平城京のために運ばれた。興福寺・春日大社は藤原氏の資産として建立された。
最後に不審火が出て、藤原京は全焼してしまった。このことも不比等のしわざとされている。
今日、藤原京跡と記された標木の前に立つと、草が茂る広大な平地が見渡せ、北に耳成山、東に香久山、西に畝傍山を望むことができる。これらの大和三山は万葉集で数多くの作品に登場する。有名なものを紹介しよう。
  香具山は畝傍雄々しと耳成と相手ひき
  神代よりかくにあるらし
  いにしえもしかにあれこそ現世もつまを手ふらしき
         万葉集 巻一第13番
 “香具山は畝傍山が男らしいといって耳成山と互い争った
 古代においてもそうだったから
 今の世の人も結婚相手を取り合って争うのだ”

 春過ぎて夏来るらし白妙の 衣ほしたり天の香具山
         万葉集 巻一第8番
 “春が過ぎて夏が来たらしい 白い衣が干してあるよ天の香具山に”

 古代の人々に親しまれ愛された大和三山。それに囲まれた当時の藤原京はどんな姿だったんだろうか?想像が尽きない。

法隆寺 柿は奈良の名産?

 法隆寺は聖徳太子が用明天皇のご遺願(自らのご病気の平癒を祈祷)を継いで、推古15年(西暦607年)に建立された。別名斑鳩寺とも呼ばれている。私達は夕方4時頃に到着した。その時、鐘の音がゴーンと私の耳に届いた。
 “柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺”
 正岡子規の有名な俳句である。
『この俳句のせいで、奈良県は柿の名産地と思わはる観光客が多いんですわ。でもね、それは違いますねん』
 ボランティアの観光ガイドが説明した。
 私達は夢殿へ向かった。夢殿は奈良時代に天平11年(西暦739年)に行信僧都が聖徳太子の遺志を偲んで建立した。十七条の憲法の第一条であの“和を以って貴しと為す”は大変有名は名言である。聖徳太子の死後、蘇我氏は太子一族を改めて滅ぼした。蘇我氏が恐れるほど聖徳太子の影響力は絶大であったのだろう。
 夕暮れの法隆寺は、五重塔・土塀・松等の木々などのたたずまいが平山郁夫画伯の絵画のごとく暮色に溶け込んでいた。私は飛鳥時代に思いを寄せながら、法隆寺を後にした。
 ホテルに向かうタクシーの中で、運転手の息子さんが関西ジャニーズに入っていることを聞かされた。残念ながら関ジャニ∞には入っていないそうだ。恥ずかしながら、KinKi Kids(堂本光一・堂本剛)とは“近畿の子供”という意味であったことを初めて知った。その他にもジャニーズの事を教えてもらい、私はにわかジャニーズ通になった。
 タクシーがホテルに到着した。チェックインを済ませ、四季亭という料亭旅館で夕食をとった。創業90年を誇る伝統と格式を持つ料亭である。食前に茶室で抹茶が女将からふるまわれた。その後、二十畳以上ある貴賓室に案内され、私達は10種類以上の懐石料理に舌鼓を打った。
 夕食が終わる頃に、人力車が私達を迎えに来た。10年前より7月1日から10月30日まで夜7時から10時まで奈良のライトアップが行われている。東大寺・興福寺・猿沢の池・国立博物館・浮見堂などを人力車で回るのは風情がある。人力車のスピード、視線の高さは他の乗り物にはない格別なもので、最初は少々恥かしさがあったが、すぐに魅了された。

東大寺 勧進帳とは・・・

 東大寺といえば大仏である。聖武天皇が建立した。ライトアップで東大寺を見学することはお勧めである。また7月20日頃は修学旅行生も少なく、東大寺を訪れる観光客も少ない。
南大門には鎌倉時代に運慶と快慶によって造られた金剛力士像がある。息を出している阿像と息を吸っている吽像である。“阿吽の呼吸”という言葉はこの像から生まれた。南大門をくぐるとライトアップされた東大寺を望むことが出来る。葵色と朱色で塗られた大仏殿が池に写り、とても幻想的で美しかった。
 あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり
                      万葉集328 小野老
“奈良の都は咲く花の色香がにおうように今盛りであることよ”

 最盛期の奈良時代が脳裏に浮かんだ。
 奈良はシルクロードの終点でもあった。正倉院には中国をはじめとしてヨーロッパ、アラビアから運ばれた数多くの貴重品が納められている。奈良は当時、国際文化都市だったのか、現在の東京に匹敵していたのだろう。
 この東大寺を焼いてしまった男がいた。平重衡である。1180年、平氏追討を命じる以任王の命旨が発せられた。各地で源氏が挙兵した。東大寺・興福寺の僧兵も挙兵した。それに対して京を発った平重衡が率いる平家の軍勢は南都に攻め入り、東大寺・興福寺に火を放った。大仏も炎上してしまった。その後、後白河法皇は全国に東大寺再建のための寄付を集めるため宣旨を発した。それが勧進帳である。歌舞伎十八番で知られる「弁慶勧進帳」の名場面、安宅の関で弁慶が読み上げるものこそ、後白河法皇の宣旨だった。

猿沢の池:藤原氏とは

 猿沢の池は人工池である。別名は放生の池ともいう。我々人間は他の動物を殺生して生きている。それを供養するため藤原不比等がここに池を造って毎年鯉を放流したそうだ。藤原不比等の父親は中臣鎌足である。鎌足は大化の改新やその後の功により、死を目前にした時、天智天皇より「藤原朝臣」の氏姓を賜った。その後藤原氏は様々な政敵を倒して、平安時代には全盛を極め、殆どの役職を独占した。そこで「どんな藤原さん」なのか区別するため名前を思いついた。
佐藤:左衛門尉・佐(すけ)官事職名から生まれた
斉藤:伊勢神宮の斎宮頭
工藤:木工寮の官僚
加藤:加賀の藤原氏
伊藤:伊勢の藤原氏
などである。しかし、全て藤原氏の血族ではなく、家来や使用人等のこともある。

 私達はすっかり人力車が好きになってしまった。そこで、翌日も人力車で“ならまち”を観光することとなった。

ならまち 食道癌と茶粥の因果関係?

 行政地名としての奈良町と言う場所はない。元興寺の旧境内を中心とした一帯で、奈良時代の平城京の区画のうち東部に突き出た外京を呼んだ場所であった。町屋作りの家・創業以来の店構えをそのままにした商店等、江戸時代から明治時代にかけての面影を今に伝え、落ち着いた風情を漂わせ、私達に懐かしさを感じさせてくれた。
 迷路のような路地には約500年続いている漢方の店・砂糖傳(飴・砂糖の店)・今西家書院・志賀直哉旧居・現在日本で唯一の蚊帳の店・格子の家等である。格子の家は典型的な町屋であり、門口は狭いが奥は広い。これには昔に門口の大きさによって税金が課せられたため、税金対策のために町屋は俗に言う“うなぎの寝床”のように建てられた。入り口は折りたたみ式の戸になっている。ここから営業を辞める時、「店をたたむ」という言葉が生まれた。人力車は酒屋の前を通った。奈良は酒が有名である。奈良から地方へ酒を発送する事を「下る(くだる)」と言う。それゆえに、出来の悪い酒は発送できないので下れない。すなわち「くだらない」の語源となった。
 次に私達は茶屋の前を通った。奈良の有名な茶は大和茶といって、緑茶ではなく焙じ茶である。以前『奈良に食道癌の発生が多いのは奈良には茶粥を食べる習慣がある。これが原因だ』という。この話を俥夫(人力車を引く人)にすると『エッーーー。うちらが小さい頃から家で茶粥なんてほとんど食べませんでした。これはうちの家庭だけでなく、奈良の人、皆そうやと思います。』
“じゃ、食道癌と茶粥の因果関係とは一体何なんだ”と私は呟いた。

興福寺 勝ち組と負け組

 興福寺は東大寺と並び奈良を代表する寺だ。奈良と言えば鹿も有名である。その鹿は特に飼育されているわけではなく野生である。観光客からおやつ代わりに鹿煎餅をもらう程度である。その他は草等を食べているらしい。鹿の社会は一夫多妻制で、勝ち誇る一頭の雄は多数の雌を引き連れている。負けた雄達は興福寺の芝草でたむろしている。そして次回への再チャレンジを虎視眈々と狙っている。この社会でも勝ち組と負け組である。しかし気をつけなければならない事は、その比率が50%と50%ではなく、10%と90%であるということだ。鹿の社会でも雄は辛いものである。“いつか花咲く時もある”と負け組の雄達にエールを送った。
 興福寺の芝生にたむろしている鹿を眺めていた時
 『昔この芝生の上で舞を踊った。そこから芝居という言葉が生まれたと聞いてますねん』
 俥夫が私達に話しかけた。
 『へぇ・・』
 日頃何気なく使っている言葉も辿ってみれば、実に面白いルーツがあるものである。
 人力車は奈良文化会館の前を通って奈良駅へ向かった。その文化会館は私が25年前に学会発表をした場所であった。
 昼食は京都の貴船の川床に予約を取っていた。京都市内とは約10℃ぐらいの温度差があり、半袖のポロシャツ一枚では肌寒さを感じた。昼食後祇園を見学し、夕方に東京へ向かった。東京へ向かう新幹線の中で、私は25年前、初めて発表した奈良の学会を思い出した。
 耳鼻咽喉科に入局した年の冬、I講師からABR(聴性脳幹反応)の実験・研究のテーマを与えられ、翌年の秋、奈良県立医科大学主催の日本脳波筋電図学会で発表することになった。発表前日から緊張して観光どころではなかった。5分間の発表が終了すると、質疑応答が始まった。私は緊張のあまり、最初の質問の意味すら理解できなかった。その時、共同演者のI講師が私の心情を察して代わりに答えた。私も冷静さを取り戻し、後の3つの質問には何とか答えられた。
 東京に戻ると、直ちに論文を書くように指示された。初めての論文だった。
『いいか、君があんなに苦労して実験して発表した研究だぞ。形に残して置いたほうが良い。君がこれから書こうとしている論文は、おそらく君と私と教授にしか読んでもらえないかも知れない。でも書きなさい。論文を書く事は多く知識を吸収することになる。我々医者は技術者であるが、科学者でもある。君には期待しているよ』
  I講師は私を励ました。
 私は必死に論文を書き始めた。多くの医学書や文献を読んだ。I講師から何回も赤字で修正され、私が最初に提出した文章など跡形もなかった。当時24万円もした富士通のワープロが出回っていた後で、教授が医局員のために3台も購入してくださった。
『お前はいいな。ワープロがあって。我々の時代は一箇所でも修正を命じられたら書き直しだぞ』
 先輩たちに羨ましがられた。
 初めての論文が医学雑誌に掲載された時、私は本当に嬉しかった。別冊を思わず多くの人達に配布してしまった。両親に渡すほど嬉しかった。
『この論文は大切にしておきなさい。そして10年以上経ったとき、また読み直しなさい。君の未熟さがよく分かるから。しかし、これは君の研究論文の基礎を築いた作品だからね』
 I講師は何回も読まされた私の論文の別冊を受け取りながら、私に忠告した。
私は彼に本当に感謝し、何度も頭を下げた。しかし、その6~7年後、彼と意見が食い違って、袂を分かつことになるとは、この時全く思っていなかった。
 その後、私は出来るだけ多くの論文を書き、一方I講師は教授になった。
 今回の旅行の数日前、一通の手紙を受け取った。I先生の古希を祝う会の招待状であった。先生も70歳を迎えることになった。年は平等に取り、私も50歳になった。
彼のあの時の気持ちを、今なんとなく理解できるような気がする・・・。

江戸川区医師会・会報誌・江戸川区2007年11月号に記載

 

紀行文 第5作 伊予の旅

 今年になって、下の息子が一人暮らしを始めた。そして、14年間飼っていた愛犬が亡くなり、世話がかからなくなった反面、淋しくもあり、妻は俗に言う“空の巣&ペットロス症候群”になったのか、少し落ち込んでいるようだった。そこで、私は妻を誘って旅行をすることにした。妻は子供達が同行しない旅や留守番の犬のことを心配しなくていい旅に、更に淋しさを感じたようだが、私はこれからこのような生活や旅に慣れることが大切であると力説し、妻はどうやら納得したようだ。
 今回、私は旅先に松山を選んだ。特に大きな理由はなかったが、数年前、私と妻は、「坂の上の雲」(司馬遼太郎著)を読んだ。文学好きの妻は正岡子規に魅了され、歴史好きの私は日露戦争で活躍した秋山兄弟に興味を持った。そこで持ちかけたところ、私の提案はすぐに妻に受け入れられた。

思い出のレーズンバター

 実は私は約30年前に松山を訪れたことがある。学生時代、サッカー部に所属していたのだが、東医体(東日本医学部総合体育大会)で、まさかの2回戦敗退を喫した時があった。悔しさと無力感で自宅でぶらぶらしていると、友人から電話がかかってきた。
『何してる?どうせ時間を持て余しているんだろう』
『その通りだよ』
『じゃ、阿波踊りに合わせて、岡山・広島・松山・高松・徳島・高知の旅をしようぜ』
『エッ、今から・・・。何の準備もしていないのに大丈夫か?』
『各県に同級生がいただろう。任せてくれよ。俺がそれぞれに連絡して、泊まらせてもらうから』
私は彼の言いなりに、新幹線に飛び乗った。各県の友人達も暇だったようで、はるばる東京から訪れた私達を親子で大歓迎してくれた。旅は順調に進み、私達は広島からフェリーで松山に渡った。ここでも大歓迎してくれると思って、住所が記載されている名簿を頼りに友人宅を訪れた。しかし、現れたのは父親だった。
『息子は急に旅行することになって、今いないんだ』
『エッ・・・』
 私達は驚いた。
『大丈夫だよ。君達の事は聞いているから。私は君達の大先輩にあたるんだ。診療が終わるのが夕方6時だから、それまで風呂にでも入って待っててくれ』
 私達は部屋に案内され、荷物を置き、遠慮なく風呂に入った後、軽い夕食をいただいていると、友人の父親が戻ってきて、私達を夜の松山の町に案内してくれた。2軒目に訪れた店は私に強い印象を刻み込んだ。カードを差し込んで自動ドアが開き、蝶ネクタイを締めた男性が我々を案内した。席に着くと、ママらしき女性が挨拶に来た。
『先生、今日は随分若い男性をお連れ下さいましたね。もしかしたら、息子さんですか?』
『否、息子の友達だよ。そもそも息子とは一緒にこんな店に来る訳ないだろう。親父の醜態なんぞ見たくないだろうからな』
 私達は恐縮した。
 しばらくすると、黒いうさぎの格好をした女性が現れた。私が初めて見た本物の“バニーガール”である。どうやら注文したものを運んできたようだ。その中にレーズンが入った円型のバターのようなものがあった。レーズンバターと呼ぶらしかった。隣に座った女性が私の口に運んでくれた。私が初めて食したレーズンバターである。その頃には私のアドレナリンの血中濃度は最高値に達したようで、味わっている余裕はなかった。
『はい、また口開けて、レーズンバターを入れてあげるから』
私は目をつぶって口を開けて待っていた。次の瞬間、口に入ってきた物は、布のようなものだった。私は目を開いた。隣に座っていたのは何と妻だった。
『あなた、着陸の為のシートベルトのサインが出ているわ。あんな大きな口を開けているんだもん。恥ずかしいからハンカチで口を覆ったわよ』
 私は現実に戻された。羽田を離陸して、どうやら1時間位経ったようだ。
 私にとって松山の思い出には、その夜以外の何も残っていない。それだからこそ、今日はしっかり松山を見聞しようと思った。

歴史

 私は何かと見聞きするにつけ、まず歴史に興味を抱く。医学論文を書く時でさえも、歴史には力を入れる。
 まずは伊予と愛媛の名前の由来とは?
 日本書紀には淡路島・本州に続いて四国が誕生した際に「伊豫二名州」として記述されている。また古事記には、淡路島に続き、「伊豫の二名ノ島を生みたまひき。この島は身一つにして面四つあり。面毎に名あり、かれ伊豫ノ国を愛比売(えひめといひ)」と記載されている。“愛比売”が“愛媛”という字で記載されたのは慶応2年今治藩医の半井悟庵により著わされた地誌「愛媛面影」が初めてである。明治6年石鉄県と神山県が合併した時に、愛媛という県名になった。この土地は温泉のように心と体を癒すような温暖な気候で、愛媛という文字はこの土地にぴったりと思われた。
ふるさとの伊予の二名の君行かば
道後の桜散らひてあらん
正岡子規
 私達はこの歌に導かれるように松山空港から道後温泉へ向かった。

道後温泉

 松山空港からバスで松山中心を抜け道後温泉までは約45分位である。おそらくタクシーで寄道せずまっすぐ行けば約30分位であろう。
 道後とは、国府を中心に都側を道前、反対側を“道後”国府の中心を道中と呼ぶ。愛媛県の“道後”は今治にあった国府の西側の広い地域を指した。道後温泉は白鷺に発見されたという伝説が残っている。3000年前、足に怪我を負った白鷺が道後の岩間から湧き出る温泉に足を浸すと、傷は治癒し数日後には元気な姿になって空に舞い立ったという。そのため、白鷺の姿は道後温泉本館振鷺閣や商店街でも数多く見られる。

 道後温泉でバスを降りて、土産店が並ぶ商店街を右に曲がると、道後温泉本館が見えてくる。木造3階建ての嗜好を凝らした建物で、その周囲だけは、古き時代の空気が立ち昇っているのが感じられる。
 道後温泉本館は数多くの観光ガイド雑誌で紹介されているので有名である。
そこは元来、公衆浴場であり、400円(神の湯階下)を支払うと誰でも入浴が可能である。
『タオルは貸してくれるけど、石鹸やシャンプーは置いていないから持っていくか、自動販売機(石鹸付貸タオル60円)で購入しないと駄目よ。それに結構混んでいるのよね』
学会の際立ち寄ったことがあった女医さんに私は忠告された。しかし、1,500円(霊の湯3階個室)を支払うと、1時間占有出来る個室に案内され浴衣に着替えた。浴場も別のところで、ゆったりと温泉に浸かることができ、シャンプーも石鹸も置いてあった。入浴後は部屋でお茶と坊ちゃん団子で一服し、老舗旅館の客間を思わせるような落ち着いた雰囲気が心を和ませてくれた。今も現役で温泉場として使われているこの古い木造の廊下・階段、そして畳・障子・襖等が体に触れ、目に触れ、時を越えて使い込んだ温もりが伝わって来た。
 松山中学校の英語教師として赴任してきた夏目漱石もよく訪れたそうだ。漱石もこの部屋から道後の街を眺めたことであろう。
霞む日や巡禮親子二人なり
夏目漱石

 その後、道後温泉商店街でお土産を買って、私達は道後ぎやまんの庭・美術館を訪れた。この美術館は平成17年に開館し、江戸時代から明治・大正時代にかけて日本で作られたガラス工芸作品を約300点常設展示している。江戸時代、ガラスは「びいどろ」「ぎやまん」と呼ばれていた。びいどろは色つきの薄い吹きガラスで、一方、ぎやまんは無色のカットガラスである。ポルトガルやオランダから渡ってきた西洋ガラスは日本の職人達によって優雅な輝きを放つ「和ガラス」になったように私は感じた。

リーマンショック

 私達の宿は大和屋別荘だった。格子戸をくぐると檜の香りが漂っていた。部屋に案内されると静けさと四季の移ろいを映し、苔むす小苑が眺められた。そして、その部屋には露天風呂が常設されていた。私は部屋の露天風呂には入浴せず、大浴場に行ってみた。予想通り、他の客は誰もいなかった。私は御影石づくりの大露天風呂を満喫した。夕食は和の伝統と四季の恵み、そして瀬戸内海の味を心行くまで楽しませてくれた。
 食事中に、女将が挨拶に来た。明治創業以来4代目だそうだ。
『本日はありがとうございました。19室ある部屋のうち本日は3組のお客様のみの宿泊です』
『やはり、昨年9月のリーマンショックの影響があるのでしょうか』と私が問うと
『はっきり言ってありますね』
若い女将の顔が曇ったような気がした。
『誠心誠意おもてなしを致しますので、是非また遊びに来て下さいませ』
 その後、私達は女将から松山と道後の今昔物語を聞いた。
 リーマンショックとは、ご存知の通り2008年9月サブプライムローンの問題で、アメリカの投資銀行・リーマンブラザーズが破綻し、世界中の資投家達は株・債権等を狼狽売りし、その結果起きた100年に一度と言われる世界大不況である。その影響がこの温泉街にも及んでいるのであろう。
 市場原理を強調していた政治家・経済学者・ジャーナリスト達はすっかり影を潜めている。マスコミは自分達があおった責任を微塵も感じることなく、政府の景気対策の不備を批判し続けている。

坂の上の雲

 翌日、私達は“坊ちゃん電車”と呼ばれている市電に乗って、松山市内に向かった。坊ちゃん電車とは、夏目漱石の小説「坊ちゃん」に登場する。
「マッチ箱のような小さな蒸気機関車が、わずか数kmの距離に煙をたけながらゆっくり進む」
 現在では、観光用に市電に改装され1時間に1本位のペースで走っている。実際に乗車してみると、外の景色もゆっくり進み、明治の時の流れはこんなものかと実感し、せっかちな私には新鮮に思えた。
 私達は途中下車し、坂の上の雲ミュージアムへ向かった。作家司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」をテーマとしたミュージアムである。舞台には明治、長く続いていた封建社会が崩れ、国民皆が身分を越えて外国に負けない近代的な中央集権国家の建設に向けて一つの目標を共有した時代である。主人公である正岡子規・秋山好古・秋山真之等はまさにこうした時代に生まれ育った。
 正岡子規は文筆活動で日本文学界に大きな貢献を果たした。また、野球好きで多くの野球用語を残している。或る愛媛県人は語った。
「Base Ballは直訳すれば塁球の筈である。では何故野球なのか?正岡子規の幼名は升(のぼる)という。“のボール”すなわち野球なのである」
 その真相はさだかではない。
 松山はその後、高校野球が盛んになった。第51回夏の甲子園大会決勝は松山商業・井上と三沢高校・太田の投げ合いは延長18回に達し、0対0で翌日再試合となった。結局、松山商業が優勝した。この大会は今でも私の脳裏に焼きついている。正岡子規も喜んだに違いない。
 秋山兄弟の兄・好古は日本の騎兵を作り上げ、日露戦争において、とうてい勝ち目がないと思われたロシアのコサック騎兵隊と戦い、かろうじて潰減をまぬがれ、持ち堪えた。
 一方、弟・真之は海軍に入隊した。東郷平八郎率いる日本連合艦隊は、真之が立てた作戦で、バルチック艦隊を日本海でほぼ全滅させた。この作品は今秋、NHKでドラマ化するらしい。好古を阿部寛、アカデミー賞の外国映画部門賞を受賞した「おくりびと」で主演した本木雅弘が真之を演じるらしい。館内に本木雅弘の書いた色紙が展示されていた。その筆使いの素晴らしさに私は感動した。素人とはとても思えない、プロにも引けをとらない作品と感じた。
 このミュージアムは安藤忠雄の設計で、コンクリート打ちっ放しの外装を持ち、階ごとに緩やかなスロープを上がりながら見学できるようになっている。建物も味わいどころといえよう。彼は独学で建築を学び環境とのかかわりの中で、新しい建築のあり方を提案し続けている。1997年東京大学教授に就任した。

愚陀仏庵

 坂の上の雲ミュージアムから坂を少し登ると愚陀仏庵がある。ここは、夏目漱石が松山中学校の英語教師時代に下宿した場所で、愚陀仏は漱石の俳号である。正岡子規は50日間ここに同居したことがあった。愚陀仏を覗くと二人が一体何を語り合っていたのであろうか?想像するだけでも楽しくなった。

松山城

 松山城小高い丘にある。愚陀仏庵から約20分位歩くとケーブルカー乗り場がある。ケーブルカーに5分乗ると二ノ丸
の入口に到着した。そこから坂道を登り続け、数ヶ所の門をくぐった。若いカップルがスタスタと私達を追い越し行く。
「Around50」の我々は『後ろに引っ張られるようだね』と地球の重力をいっぱい感じ、また腰をいたわりながら登っていった。
そして、やっと庭園にたどり着いた。気温は15度で2月にしては暖かく、庭園には紅梅・白梅が満開で春の訪れを強く感じた。
また、そこから松山市内が一望出来た。
しかし、残念なことに、中国大陸より飛来した黄砂によって霞がかかったような風景となった。私達は茶店で抹茶とあん蜜を食べながら昔の松山に思いをはせた。
春や昔 十五万の城下哉
正岡子規
 慶長8年(1603年)加藤嘉明は家康にこの地を与えられて移ってきた。徳川家康の姪・松平の「松」をもらい、当時の地名・勝山を松山と改めた。加藤は元々豊臣秀吉の家臣で賤ヶ岳七本檜の一人として有名である。しかし、関ヶ原の戦いでは徳川家に属し、その功績が認められ、伊予半国が与えられた。そして、築城も許された。しかし、松山城完成を目前にして会津への転封となった。そもそも、徳川幕府は豊臣の家臣を信用していなかった。広島の福島正則、肥後の加藤清正の家も後に改易された。阿波の蜂須賀家は幕府に疑いを抱いさせないため阿波踊りを始めたとも言われている。
「踊る阿保に見る阿保、同じ阿保なら踊らにゃ、損損」
哀れなことである。時の権力者の意向によって、実力のある人間が、その能力を発揮できる地位に必ずしも就ける訳ではない。一方、要領よく立ち振る舞って、実力以上の高い地位に就けることもある。現代社会にも通じるような気がした。
 寛永4年(1617年)、蒲生忠知が松山に入った。しかし、寛永11年、忠知の死で蒲生家は断絶した。そして、久松松平家が入城した。松山藩は親藩となった。その後、安定した治政や温暖な気候で平和は時が流れた。しかし、約200年後の幕末、松山藩は朝敵とされた。それ故に、松山藩出身者は明治維新後、薩摩や長洲のように、とんとん拍子に出世が望めず、肩身の狭い境遇だった。しかしこのことが逆に反骨精神を生み、明治時代を代表する学者や文化人を輩出することになった。正岡子規や秋山兄弟もそれらの人々の一人だったのであろう。
 私の住んでいる文京区は、夏目漱石が住居を構えたゆかりの地で、「我輩は猫である」はそこを舞台にした代表作の一つである。その漱石が松山で過ごし、「坊ちゃん」という名作を世に送り出した。それ故に、私はこの旅を通じて、松山に親近感を覚えた。
東京へ戻る飛行機の中で、私は明治の人とは一体何であろうかと考えていた。江戸幕府が倒れ、政府は封建社会から中央集権国家を急いで作り上げようとした。そして、欧米列強国に植民地にされないように文明開化と共に、富国強兵策を行った。その結果、朝鮮・中国を侵略し、日清戦争・日露戦争を起こすことになった。しかし、この戦争によって人々は初めて自分達を世界の中で「日本人」として思うようになった。それまでの日本では、人々はそれぞれ長洲人・薩摩人・曾津人・土佐人と思っていた。この2つの予想外の勝利は日本人に愛国心を植えつけた。明治人は「お国のため」に働くことに誇りを持っていたようだ。しかし、その後日本は軍国主義がはびこり、「お国のため(戦争に勝利するため)」という言葉が全て優先し、遂には尊い命よりも重んじられるようになった。
 太平洋戦争敗北後、日本は戦前の思想を全て否定することから始まった。
現代の日本では経済・教育・医療等において、国の責任を問う裁判が続出している。しかし平成人達は「お国のために(社会の人々のため)」一体何をしているのであろうか。
 今回の伊予の旅は、約150年前の日本人の心意気を私に感じさせてくれた。

江戸川区医師会・会報誌・江戸川2009年5月号に記載

 

紀行文 第4作 薩摩の旅

 日本の歴史において、人々が好きな時代といったら、源平合戦・戦国時代、そして幕末であろう。
 昨年のNHKの大河ドラマ“篤姫”は、高視聴率のうちに終了したらしい。私もその視聴率を上げた一人でもあった。そんな中、明治維新に大きな役割を担った薩摩・鹿児島県に、私は興味を持った。
 私が今まで旅行や学会等で訪れたことの無い都道府県は、秋田・和歌山・佐賀・大分・宮崎・熊本・鹿児島である。それゆえ、益々鹿児島県に行ってみたくなり、平成20年8月下旬、妻と二人で2泊3日の旅行をすることになった。

飛行機の中で

 羽田から鹿児島空港までは約1時間半の飛行時間である。乗客はまばらで、スチュワーデス(現在はキャビンアテンダントと呼ぶ)はやや手持ちぶさたのようだった。機内食は終わり、食後のお茶を飲んでいると、スチュワーデスが私達に笑顔で話しかけてきた。
 『ご旅行ですか?』
 『そうなんです、初めての鹿児島なんです』
 『先ほどから見てますが、ご夫婦とても仲睦まじく見えますよ』
 『そんなことないんです。今だけですよ』
 妻も笑いながら会話に参加してきた。
 その後、スチュワーデスの勤務・将来の夢・鹿児島の見所・結婚問題まで話が弾んだ。
 約20~30分話していただろうか。あっという間に時が過ぎ、機長から運行状況についてアナウンスがあった。
 スチュワーデスは元のポジションに戻っていった。
 彼女が去った後、妻は私の笑顔を鋭く、呆れて見つめ、
 『あなた、昔からスチュワーデスさんのこと大好きだったもの。あんなに楽しそうにしゃべるあなたを見るのは久しぶりだわ』
 『そんなことはないよ・・・』
 窓の外には堂々とした桜島が私の目に入ってきた。飛行機は妻の気持ちを沈静化させるかのように、鹿児島空港に着陸した。

島津家

 空港から観光タクシーで知覧へ向かった。そこは武家屋敷庭園が約700mの間に7軒保存され、歴史的観光地区となっている。ご存知の通り、鹿児島と言ったら薩摩藩、薩摩藩と言ったら島津家である。初代当主は忠久で鎌倉時代まで遡る。鎌倉幕府よりこの地の守護に任命された。元寇を機会として下向し、在地化が進んだ。南北朝時代、足利尊氏を助け、室町幕府より重要視されていた。
 戦国時代、九州統一を目指し躍進したが、1587年豊臣秀吉の九州攻めを受け降伏したものの、領土は安堵された。関が原の戦いでは西軍に属して徳川家と対峙した。しかし、西軍の石田三成より再三の出輩要請にもなかなか動こうとはしなかった。突然、小早川の裏切りで西軍の敗色が濃厚になると、3,000名の兵士と共に家康正面を突破し、命からがら薩摩に戻ってきた。生存者はわずか80人だったそうだ。
 関が原合戦の後、家康に所領安堵を認めさせることに成功した。しかし、薩摩藩は江戸幕府から土地を貰ったとは思っていなかった。江戸時代初期には奄美諸島を領土とし琉球王国を支配下に置いた。また、徹底的な鎖国を行い、幕府から放たれた密偵は再び江戸に戻ることはなかった。
 28代藩主・斉彬は様式鉄製・造船・紡績を中心とした近代産業を興す取り組みを見せた。
 幕末、薩摩藩は尊皇の志士を多数輩出、倒幕の原動力となった。
 明治に入ると、廃藩置県で土地は全て中央政府のものとなり、各地方に知事(管理官)を派遣した。これを中央集権国家という。
 一方、封建制度とは論功行賞で主君から土地も頂き、その代わりに忠誠を誓う。しかし、200年前の主従の恩顧は次第に薄れていた。
 私はこの武家屋敷を見廻っていると、今にも薩摩武士が『チェッソー(薩摩武士の特有の掛け声)』と言って飛び出してくるようだと思いながら、次の目的地・知覧特攻平和会館へ向かった。

特別攻撃隊

 知覧には陸軍の航空隊があった。現在では知覧特攻平和会館となっている。一式戦闘機『隼』・二式戦闘機『屠龍』・三式戦闘機『飛燕』・四式戦闘機『疾風』が展示されている。また、隊員の遺影・遺品・記録等貴重な資料を収集・保存・展示し、当時の真情を後生に正しく伝え、世界平和に寄与している。昭和20年、本土最南端の特攻基地となり、『若き勇士が雲流るる果て、遥か逝いて帰らざる』壮途につかれた思いのこもる地である。
特攻隊員は『お国のために死ぬ』と言って出撃した。しかし、本当は家族のためにも絶対に生き残りたかったではないだろうか。
戦争の愚かさ、無情を感じながら指宿へ向った。

ネッシーとイッシー

 指宿へ向う途中で、池田湖に立ち寄った。その湖は九州で最大の大きさである。しかし、この湖を有名にしたのは巨大ウナギと“イッシー”と呼ばれる謎の生物だった。
 これはネス湖の“ネッシー”をぱくったものと言える。数年前ネッシーはやはり人工的に作られたものと判明した。イッシーも話題性を呼ぶためと想像される。
 次に私達は長崎鼻岬から薩摩富士と呼ばれている開聞岳を眺望した。私は鹿児島の山と言ったら桜島の御岳しか思いつかない。初めてこの開聞岳を眺めたとき、大河ドラマ“篤姫”の第一話を思い出した。 母親が篤姫に開聞岳を背にして『人にそれぞれ役割があり、それを果たす責がある』と論したシーンである。開聞岳の姿は何と優美であろう。

白水館


【写真1】

 この旅に出発する前に、或る友人に『指宿温泉に行くなら絶対に白水館に泊まらなきゃ駄目だよ』と強く勧められた。
 白水館に到着すると、まず、その敷地の広さに驚いた。客室は205室で約950名収容可能、館内には大浴場の他に、露天風呂や指宿名物砂蒸し温泉がある。【写真1】
 また、数ヶ所の料亭・バー・ラウンジを有し、外には日本庭園・プール等が備わっている。しかし、私が最も感心したのは、薩摩伝承館という施設であった。22億円にかけて宇治の平等院を模倣して建てられた。【写真1】
 白水館が創業以来60年の歳月をかけ莵集した約3,000点のコレクションから約380点を展示している。
東京の美術館は常に中高年の人達でごったがえしているが、ここでは日本の伝統美が息づく優雅なしつらえや中国陶器の彩りの素晴らしさをゆっくり鑑賞できた。
 夕食は1日30食限定の「御家督御内証御祝膳」を賞味した。これは嘉永4年(1851年)に篤姫が鶴丸城で島津斉彬の藩主就任を祝う会に参加し、能を観ながら食したのだと伝えられている。今年のみのメニューだそうだ。ここにも大河ドラマの“篤姫”効果があるようだ。その食事の内容は本膳(御橧・御汁・御香物・御飯・煮物)、二の膳(造り・吸い物・炊合)、三の膳(焼物・揚物・温物・御飯・止椀・果物・御菓子・御抹茶)であった。篤姫はこれを全部食したのであろうか。私でさえもかなり厳しかった。

篤姫効果

 翌日、指宿市を観光し、鹿児島市に向うことにした。
 指宿は分家である今和泉島津家の領地であった。私は大河ドラマが始まる前まで、今和泉家のことを全く知らなかった。地元の観光局も、今和泉家別邸跡(現・小学校として使用)にあわてて看板を立て、また、その目の前の海岸にも小さな記念碑を建てた。
 『昨年まで、このあたりを訪れる観光客は殆どいませんでした。我々も今年になって色々知ったんですよ』
 地元の観光タクシーの運転手も、篤姫ブームに驚きながら私達を連れて行った。
 その後に“いぶすき篤姫館”を訪れた。
 『昨年まではこの建物は地域高齢者の集いの建物でした。しかし、市が篤姫効果を期待して、今年の1月12日から来年の1月12日まで急遽記念館にしたんです。当初4万人位来館があればいいと思っていたんです。でも8月の段階で8万人を突破しているのですよ』
 運転手は嬉しそうに説明した。
 展示内容はドラマ撮影のセットや現地のロケに使用された物の説明が主で、私は予想と違って、結構楽しめた。
 私の気分はすっかり幕末の志士となり、私達は鹿児島市へと向った。

西郷派?大久保派?

  鹿児島城下に加治屋町という所がある。その町では西郷隆盛・大久保利通・大山巌(後に日露戦争元帥)・東郷平八郎(後の日露戦争の連合艦隊指令長官)等、幕末・明治にかけて活躍した多くの人材を育てた町であった。その殆どが下級武士の少禄で貧しかった。西郷と大久保は幼馴染で兄弟以上に仲が良かったという。一方が飯を食べられる日があった時は、自分の分を減らしても相手の分を取ってやったという話も残っている。二人は同志以上の仲で、呼吸一つで互いの気持ちが分かるようになっていた。そんな彼等は人生の最期に刃(やいば)を交える結果になってしまったのである。
 明治維新後の新政府は廃藩置県と士農工商の廃止を行い、武士階級には不平不満が満ちていた。欧米視察から戻った大久保と留守を守っていた西郷は征韓論で対立し、西南戦争が起こったと私は小・中学校の日本史の授業で教わった。しかし、実際には不平を積もらせた元武士達は人望の厚い西郷を担ぎ出し、人情深い西郷は遂に立ってしまった。私は革命家としての西郷は認めるが、政治家として私欲を捨てて、日本の将来を考え続けた大久保の方が好きだ。加治屋町を歩いていると、幕末の志士達の記念碑が数多く立っている。
 日本の歴史を振り返ってみると、日本では困窮した農民や町人が立ち上がって政権を倒したという歴史はない。
 藤原貴族政治を平清盛が終わらせ、源頼朝が平家を滅亡に追い込んだ。足利尊氏が鎌倉幕府を倒し、織田信長が足利義昭を追放し、徳川家康が江戸幕府を開いた。薩長が中心となって倒幕し、明治維新となった。昭和の軍国主義は連合軍の武力の前に破れ、マッカーサーを中心とする進駐軍が民主主義を導入した。その後、自民党政権が続き、内閣総理大臣は永田町の密室で決められて国民は蚊帳の外であった。
 一方、諸外国では、フランス革命では農民が王朝を倒し、ロシア革命では農民と労働者が王朝を滅亡させた。アメリカ独立戦争は市民が大英帝国を打ち破った。中国では黄巾の乱により漢王朝滅亡のきっかけを作り、異民族の侵略で宋が倒れ、白蓮教徒の反乱によって、元がモンゴルへ追い払われた。そして、窮民の反乱を指揮した李自成によって、明王朝が倒された。孫文等による辛亥革命で清が最後の王朝となった。
 我国の一般国民は、税金を取り立てられるだけの被支配階級になっていて、言葉を入れ替えれば社会に対する一種の無責任階級となっている。それ故に政治に不満を持っていても、いざ選挙の投票率となると50%を切ることも多くなっている。
 こんな思いを抱きながら、加治屋町内にある維新ふるさと館へ入った。

維新への道

 維新ふるさと館では、鹿児島の歴史が一目で分かり、また体験できるようにと展示されている。その中でも教育学部出身の妻は“郷中教育”に興味を持った。薩摩藩では武家の子供達の教育(学問・武術・躾等)を地域の年上の青年達が担当した。この地域社会の幼い頃から体験を共にし、情緒や価値観を共有するといった縦と横の強い結びつきが倒幕への原動力となったのではないだろうか。しかるに最近の日本では、教育は塾、躾は学校、仕事以外では同僚との付き合いを避け、自宅では隣人の顔も分からず、地域活動は一切参加しない家庭が増加している。そんな現代社会において、幕末の志士達のような日本のために仕事をする偉人達は登場しないだろう。出てくるのは国民の生命財産を守ることより、自分の政治生命を大切にする政治家ばかりであろう。

市内観光と芋焼酎

 まず、フランシスコ・ザビエルが日本に初上陸した記念碑を見学した。私はキリシタンと言えば長崎と思い込んでいた。ところが、鹿児島に上陸後、長崎に行ったらしい。
 次に鶴丸城跡を見学した。現在では城は残っていない。その城壁には西南戦争で受けた銃弾の後が残っていた。
 鹿児島の名産と言えばさつま芋・焼酎・黒豚等がある。そこで、今回、焼酎工場を見学することにした。私は初めて焼酎の作り方を知った。米麹1に対してさつま芋を5使用する。蒸留水を集めて酒を抽出し、その後、貯蔵し熟成する。麹は現在、黒・白・黄がある。元々は黒麹のみだったが、突然変異で白麹が発生したそうだ。その後、黒麹は工場内を汚す等の理由で廃れていき、白麹が主流となった。しかし、最近の黒ブームで復活したそうだ。また、さつま芋は現在約40種類あり、麹が3種類、貯蔵年数を変えることにより、無限な種類の芋焼酎を作れるそうだ。しかし、中国産の芋と区別する為、協会が独自にマークを作った。また、南鹿児島で生産された芋で作った焼酎のマーク、外国へ輸出しても大丈夫な芋焼酎のマークも作って瓶につけている。一種のブランド化である。
 さつま芋はアメリカ大陸からヨーロッパに伝わり、更に東南アジア・中国を経由して、江戸時代に琉球から日本に伝わり、青木昆陽らによって、日本人の食料として普及された。そのキャッチコピーが「栗(九里)より(四里)うまい十三里」であった。
 ブランドと言えば、芋焼酎には森伊蔵・魔王・村尾・萬膳がある。これらは4Mと言われ超人気ブランドで、鹿児島ではなかなか手に入らないらしい。私は工場見学後、タクシーの運転手に頼んで、それらが売っている酒屋に連れて行ってもらった。
 その店は大通りよりちょっと路地に入ったところに有り、中に入ると他に客はいず、胡散臭いおやじが出てきた。
 しかし、『いらっしゃいませ』等の挨拶もない。
 『森伊蔵と魔王が欲しいんですけど』
 『あるよ。でもね、それだけでは売れないんだよ。うちで作っている焼酎と一緒に買ってもらわなくちゃ駄目だな』
 『いいですよ。いくらですか?』
 『森伊蔵とうちの焼酎でこの値段、魔王ならこれ』
 おやじは私に値段を書いて提示した。この値段は普段飲んでいる焼酎に比べ10倍以上した。
 『それじゃ、森伊蔵を3セット、魔王を2セット送って下さい。カードでいいですか?』
 『うちは現金払いだよ』
 『分かりました』
 私はその値段に同意し現金で支払った。
 すると、そのおやじの態度が急に変わった。
 『お客様、本日は誠にありがとうございました。名刺を受け取って下さい。次回から電話さえいただければ、東京に送らせて頂きます。よろしくお願いします』
 おやじは頭を下げながら、名刺を差し出した。
 実におもしろかった。
 帰り際に『運転手さん。ありがとうね。またお客さんを連れて来てね・・・』と耳元で囁いていた。
 東京に戻って、行きつけの寿司屋でその話をすると、 
 『それは安い買い物ですよ。東京ではそんな値段では入りませんね』と言われた。ちょっと優越感を味わった。

旧友との再会

 その日は城山観光ホテルに宿泊した。城山とは小高い山で、西郷隆盛が西南戦争で敗走し、自決した場所であった。ホテルの露天風呂から鹿児島市内の・錦江湾・桜島が一望できる。
 夕食は旧友N氏と一緒に食べることを予定していた。彼はE社のMRで、私が開院した年から約5年間、私の医院も担当していた。彼の結婚式に祝電を送ったところ、新婚旅行から戻った後、私の医院に新妻を連れて来て、私に紹介してくれた。その後、福岡・兵庫・そして鹿児島に赴任したそうだ。3年前、東京の学会に出張した際、私の医院を久しぶりに訪れ、一緒に昼食を摂った。その時『鹿児島にいらっしゃる時は必ず連絡下さい』と言って、彼は江戸川区を後にした。
 その言葉に甘えて、私は彼に連絡を取り、夕食を鹿児島の名物店で摂ることにした。
 ホテルのロビーで待ち合わせして、黒豚のしゃぶしゃぶを食べることにした。タクシーの中で彼も40歳代後半になったことを知り、月日が長く過ぎたことを実感した。
 到着した店は華連という有名店だそうだ。当初、私は豚肉を熱湯にさっとつけて食べるものと考えていた。しかし、出てきたものは蒸篭が2つ、1つの蒸篭には豚肉の切り身が綺麗に並べられ、もう1つには野菜・キノコ・魚介類が入っていた。そして、その2つを重ねて目の前で蒸す。数10分後に出来上がり、それらを箸でつまんで3種のタレにつけてほうばる。実に美味かった。
 この料理を食べながら、私の医院を担当していた5年間のこと、その後の人生を、そして未来をお互い語りあった。
 2次会は焼酎バーへと行った。芋焼酎しか置いていないバーで、私は初めて体験した。お酒があまり飲めない妻は梅酒をゆっくりと味わっていた。私は芋焼酎の飲み方を教わった。芋焼酎の飲み方の基本は“そのまま飲んで欲しい。梅干、レモン等で割らないで欲しい”である。


【写真2】

 まずはストレート、そしてロック・水割り(焼酎が6、水が4)そしてお湯割り・最後に人肌であった。この人肌にはかなりのこだわりがある。前日より焼酎が6、水が4の割合で瓶に入れてねかせる。そして、飲む前に人肌の温度をつけて温め、“千代香(じょか)”と呼ばれる土瓶【写真2】の様な物に入れ、猪口で飲む。芋焼酎を満喫しながら、昼の酒屋の話となった。
 『鹿児島の人は森伊蔵とか魔王なんて飲みませんよ。元々数千円の焼酎ですよ。どうして数十倍のお金を出して飲もうなんて思いませんよ』
 『じゃあ、何がお勧め?』
 『私は宝山がいいかな・・・』
 それから黒糖焼酎、黒麹の焼酎、白麹の焼酎、異なるさつま芋で作った各種焼酎を飲み比べた。しかし、私の舌ではその微妙な味の差を感じとることができなかった。
 芋焼酎が全身にしみわたった頃、再会の宴は終わりとなった。
 『先生、ご馳走様でした。実は10月から高知県へ転勤となりました。せっかく肝臓が焼酎に慣れていたと思っていたのですが、今度は日本酒に慣れるようにします。次回は高知県に遊びに来てください』
 『いつか、土佐の旅を計画したら、また連絡するよ。僕は坂本龍馬を尊敬しているから、いつか行くと思うよ。その時までに日本酒をマスターしておいてね。今夜は本当に楽しかったよ』
 二人は握手をして別れた。

桜島

 翌日、南州墓地(西郷隆盛を始めとして、西南戦争での戦没者2,023名の墓地)、仙厳園〈1658年19代藩主島津光久が別邸を構えたのが始まり〉、集成館(島津斉彬が大きな近代化の礎に築いた工業群で製鉄・造砲・紡績・印刷・製薬・ガラス・ガス・医療等様々な分野に渡っている)、その後フェリーで桜島に渡った。約15分位で桜島に到着した。フェリーの中で私は運転手に昨夜の焼酎バーの話をした。
 運転手は笑い出した。
 『お客さん、それは良い経験をしましたね。でもね、鹿児島の人はお湯か水をグラスに3~4割入れて、その後焼酎を流し込んで飲み干し、酔っ払うだけですよ』 
 もうすぐ桜島に到着するという船内放送が流れた。
 タクシーは桟橋から湯元平展望所(373m)へ向った。そこから鹿児島市を一望でき、反対側には噴煙を上げる南岳を展望できる。


【写真3】

大正3年の大噴火の際、膨大な火山灰に黒神神社の鳥居が埋没した。【写真3】
 また、桜島と大隈半島は陸続きとなり、私達は島の3分の2を回り、その陸続きとなった所から大隈半島を渡り、途中黒酢工場を見学した後、空港へ到着した。       
 桜島はいまだに車が運転できないほどの火山灰を降らせることがあるそうだ。それでも、『鹿児島と言ったら桜島、桜島は鹿児島県人の魂と思っている人は私だけではないと思いますよ』 
運転手が私に最後に説明した言葉だった。

東京に戻って

 私は東京に戻ると少し薩摩隼人気分になっていた。焼酎は麦から芋に変わり、自分に気合を入れる時は“チェッソー”と心の中で叫ぶことがある。
 鹿児島の風土に触れ、また維新の志士達の息吹と人生を身近に感じ“薩摩色”に染まっていた私に、或る朝妻が首を傾げながら言った。
 『あなた、寝言で“半次郎よ、もう人を切るなよ!”と大声で叫んでいたわよ』 
 半次郎とは薩摩藩士・中村半次郎のことで、幕末の京都で佐幕派の人々を切り殺し、“人切り半次郎”と異名を持ち恐れられていた。維新後、桐野秋利と名を変え、陸軍少将まで出世した。しかし、西郷隆盛を巻き込んで西南戦争を勃発させた張本人である。
 更に懲りもせず、私は妻に言ってしまった。
 『いやぁ、龍馬と妻・おりょうは薩摩を旅したんだよ。それは日本人初の新婚旅行と言われている。我々夫婦も今年結婚25周年を迎えたね。今回の薩摩の旅は銀婚旅行とでも言うのかな?』
 『エッ、自分を坂本龍馬と思っているの?この思い込みの激しさ・・・』
妻は絶句した。

 その後、大河ドラマ“篤姫”を色々な角度から見るようになった。
 また、N氏が私に勧めた“宝山”という焼酎の黒麹が、三笠フーズが意図的に流通させた汚染米で作られてしまったこと、天文館(鹿児島市内で一番の繁華街)にある三越が閉店すること等、テレビニュースでも鹿児島のことが流れると気にとめるようになった。
 旅は良いものである。一度訪れた土地には思い出と共に親しみや愛着が心に根付く。
 そんな経験や歴史を求めて、近い将来、長州や土佐にも再度訪れてみたくなった。

江戸川区医師会・会報誌江戸川2009年1月号に記載

紀行文 第7作 土佐への旅

 どしゃぶりの雨音で目が覚めた。今年の春は寒い日が続き、4月10日を過ぎても、高知ではまだ桜が満開の所があった。朝食後、本日の観光を取り止め、中村駅から高知駅へ向う電車や、高知から東京へ向う飛行機の運行に支障が出ないか心配しながら、「四万十いやしの里」という名のリゾートホテルのライブラリーのような喫茶室で、コーヒーを啜りながらこの紀行文を書いている。

 今年のNHK大河ドラマの「龍馬伝」の影響を受けて、私は高知県へ旅する気分となった。高知県と言うよりは、土佐と書いた方が親しみやすいかも知れない。
 約30年前、私は友人と二人で、夏休みに岡山、広島、松山、高松、徳島、土佐を訪れた。この旅へのいきさつについては「紀行文第5作伊予の旅」で2009年江戸川279号に記載した。東医体でのまさかの敗退で、毎日の空虚な生活から脱却するため、各県出身の同級生の家に泊まりながらの旅だった。その終着地が土佐であった。
 徳島の阿波踊りに熱狂した後、友人の実家へ泊めて頂いた。その実家は徳島市からかなり奥に入った所で、当時国鉄牟岐線の終着駅海部だった。
 翌日、高知県に向かう際『国鉄で山の中を通って行くよりは、バスで海岸沿いに行った方が、景色が良いよ。2~3時間に1本くらいは走っているから』と友人に勧められた。
 海部駅は始発のようで、我々以外に数人の客しかいなかった。
 バスに乗る際に、『お前の実家は自然がいっぱいで、のんびりしていて、良い所じゃないか』と私が友人に言うと、
 『たまに来るからそう思うんだよ。俺は東京の生活が好きだ。実は親の跡を継ぎたくないんだ・・・』
 彼は田舎の生活から、一刻も早く脱出したいかのように答えた。
 数十年後、彼は親の跡を継いで地域医療で活躍している。
 バスの中で二人連れの女性と出会った。話が弾み、龍河洞という鍾乳洞を見学することになった。思いもよらない途中下車であった。約3時間後のバスに乗って再び高知市内へと向った。市内到着後、彼女達と住所と電話番号を交換し別れた。しかし、私は彼女等から手渡されたメモを旅の途中、何処かで無くしてしまった。その後、私の自宅に彼女から電話があったようだが、母親が不信感をあらわにした対応したせいなのか、二度と電話はかかって来なかった。
 その事を思い出していると、羽田発のJAL1483便は高知龍馬空港に着陸した。

ジャパニーズドリーム

 空港からタクシーに乗って、安芸市にある岩崎弥太郎の生家に向った。三菱財閥の生家は標準的な中農の家で、彼が日本列島を模して造った石積みが残っている。三菱のメンツをかけて、 綺麗に保存されているようだ。実際はもっとボロボロの家であったのであろう。
 彼は地下浪人と呼ばれた一応武士ではあるが、身分の低い家に生まれた。生活は極貧であった筈だ。
 土佐藩には同じ武士の中でも、上士と下士という厳しい身分差別があった。その違いは一体何か?
 戦国時代、四国は長曾我部氏が治めていた。そして豊臣秀吉に屈服した。関が原の戦い後、徳川家康は味方してくれた秀吉の家臣達に、江戸よりかなり遠方ではあるが広大な領地を与えた。しかし、徳川家は決して豊臣の元家臣達を信用している訳ではなかった。肥後の加藤清正も孫の代で改易、広島の福島正則も難癖をつけられて改易となった。そして、山内一豊には土佐が与えられた。しかし、当時、土佐には一領具足と呼ばれた長曾我部以来の郷士達の歴然たる国造りの努力が残っている。山内氏は家康から領地をもらったとしても、一領具足達は全く納得していない。山内一豊は土佐に入国し、直属の掛川家を上士として、長曾我部に仕えていた旧家臣達を下士として差別し、徹底的に弾圧し山内氏の支配を維持した。
 上士は下士に対して威張り、下士は農民を蔑み、いじめた。一方、農民からは「いらぬものは下士と犬の糞」と嘲られた。
 その中、岩崎弥太郎は一度投獄されたことがあり、その時一緒にいた囚人から経済の基本を学んだと言われている。
 坂本龍馬の死後、弥太郎は海援隊を四万両の負債と共に引き継ぎ九十九商会とし、その後三菱商会を設立した。これが三菱財閥の礎である。そして、三菱蒸気汽船会社を立ち上げ、明治7年日本が台湾出兵の際、政府高官に取り入り、10隻の商船を政府から無償で借り入れ、巨額の利益を得た。そして、遂に国有の日本国郵便蒸気汽船会社を吸収合併し、郵便汽船三菱会社を設立し、上海航路にも進出した。その結果、外資との競争、即ち運賃の値下げ合戦なり、現在の日本経済と同様、デフレという状況を招いた。弥太郎はこの悪循環から脱するため、新しい事業を起こした。それが荷為替金融(船荷を担保にとって、金を貸す)である。これが現在の三菱東京UFJ銀行の基である。

 三菱の会社綱領に、所期奉公(社会貢献)・処事光明(フェアーな商売)・立業貿易(グローバルな視野)があるそうだ。利潤や投資家のためならば、どんな事でも行う最近の世界経済において、この綱領を再認識してみてはどうだろうか。
 文京区湯島に岩崎邸が現存する。彼は、まさしくアメリカンならぬジャパニーズドリームを実現させた男であろう。ちなみに三菱のマークは、岩崎家の家紋・三階菱と山内家の家紋・三葉柏から由来していることは有名である。

運命の相違

 私達は岩崎弥太郎の生誕の地を後にし、高知市とは逆の方向の北川村へ向った。そこには中岡慎太郎の生誕の地がある。今でも閑散とした山間部にある。彼は薩長連合の実現、公家同士の協力体制に構築に奔走した。そして、陸援隊を組織して、倒幕の大きな原動力となった。しかし、坂本龍馬とともに近江屋で襲撃され、わずか29歳と7ヶ月でその生涯に幕を閉じるが、彼の果たした功績は計り知れない。しかし、その小さな記念館に入場したのは、私達を含めてたったの4人とはあまりにも淋しい。

 中岡慎太郎縁の地に別れを告げ、坂本龍馬像が立ちそびえる桂浜へと向った。
桂浜はよさこい節にも「月の名所は桂浜」と歌われた松林と砂浜の5色の小砂利、紺碧の海が箱庭のように美しく調和している。少し小高い所に太平洋を見下す約
13mの銅像がそびえ立っている。坂本龍馬の像である。高知県の青年達が全国に募金活動を展開し、昭和3年に建てられた。袴にブーツを履き、懐手で太平洋を眺めている姿は壮大だ。
 私はつい自分を龍馬に置き換えてしまった。
 『お龍、一緒に写真を撮ってつかあさい!』
 私は妻に話しかけた。
 妻は恥かしそうな顔をして、人ごみの中に隠れてしまった。
 タクシーの中で、妻からその話を聞いた運転手が笑いながら言った。
 『お客さんばあがやないがで。結構、みんなぁ龍馬になっちゅうが』
 そう言えば、最近、坂本龍馬気取りになって自民党を離党した政治家がいた。しかし、今のところ彼は誰からも相手にされていないようだ。
 龍馬像の近くには記念館もある。多くの観光客が訪れていた。この春休みには、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の影響なのか、150台以上ある駐車場はすぐ一杯になり、大渋滞を引き起こしたそうだ。そこで、ゴールデンウィークはバス・タクシー以外の一般車の乗り入れを禁止し、その際近くに仮設駐車場を多く作り、無料バスで送迎する予定だそうだ。
 坂本龍馬の功績は周知の通りである。彼の組織した海援隊は武力集団を目指したのではなく、貿易立国・日本を目指した。盟友中岡慎太郎と共に志半ばで倒れたが、龍馬は後世の人達に尊敬を残した。
 前記した中岡慎太郎記念館の来客数の数千倍の数が龍馬記念館に来訪する。
 この差とは一体何なのか?同じ事を志しても、生きている間に人生の差が出るのは仕方がない。しかし、死後に大きな差が出ることには無情を感じた。
 龍馬像を後にし、私達は高知市内へと向った。

歴史からの教訓

 市内に入る途中で、武市半平太の家を訪れた。彼はここから歩いて登城していたのかと思うと、その健脚ぶりには驚かされる。
 タクシーから降りる前に、運転手から注意された。
 『昨年まで、ここを訪れるお客さんは、ばっさりいやぁせんやった。おったとしたらマニアですろう。今、武市半平太の家にゃー、一般のひとが住みゆうがやき、決して中にゃ入らんとおせ』
 私はここにも大河ドラマの影響を感じた。
 武市は「尊皇攘夷」を掲げ、土佐勤王党を結成し、土佐藩の政権を一時牛耳った。しかし、その後、私の嫌いな山内容堂から弾圧された。
 薩摩藩は寺田屋事件で薩摩隼人が、決起に走る過激派の薩摩隼人を襲撃し鎮圧した。長州藩も禁門の変の敗北で、藩内は保守派が実権を握った。1863年薩英戦争、1864年四国艦隊(英・米・仏・蘭)による下関砲台占領等で、薩摩も長州も欧米の実力を完膚無きまで見せ付けられた。その後、両藩は攘夷から倒幕へと梶をきった。
 広い視野を持たず、現実不可能と思われるような一つの主義に傾倒していく事は、洗脳された人や見識の少ない人には、よくあることだ。例えば昭和初期、軍国主義がはびこり、「大和魂」があればどんな相手にも勝てると信じたこと。最近ではオウム真理教事件。“グローバルスタンダード”は世界の常識と国民に思わせ、結果的には欧米に有利に機能する基準。蜜の味のマニュフェストを掲げ、政権を奪取したものの、その非現実性に気付き出したが、認めようとしない政権担当者。
 いつの時代でも改革者・指導者達が、歴史から学ぶことは難しいようである。

私の偏見

 高知城を私達は見学した。追手門の横には山内一豊の像がある。一豊の妻は良妻賢母として有名である。夫を出世させるためなら、自分の体力・知力そして貴重な持参金を捧げた。現代の日本には、そんな女性が果たしているであろうか?
 女性だけではない。会社のために罪を被ったり、突然死を辞さない社員がかつてはいた。その是非は別として、彼等はモーレツサラリーマンと呼ばれ、戦後の日本経済の戦士だった。現在では、高齢者となり介護の手を差し伸べてくれることを待っている。しかし、政府は彼等より若者を手厚く援助しようとしている。今の日本の豊かさを築いたのは彼等だということを、現在の若者達は残念ながら気付いていない。携帯電話やパソコンを常備し、電化製品に囲まれ、額に汗をかいて働くことを嫌い、週休2日性を謳歌している。しかし、そんな生活を維持するために、国の借金は800兆円を超えた。
 追手門をくぐって左手には板垣退助の銅像が堂々と建っている。
 暴漢に襲われて倒れた時、
 「板垣死すとも自由は死せず」と発したと言われている。彼のパフォーマンスは、昨今の政治家より遙かに優れている。
 しかし、彼には「自由」の信奉者とは違う一面があることをご存知であろうか。
 板垣は戊辰戦争の時、会津攻めの司令官だった。会津藩は恭順の意を示し、降伏を申し入れた。しかし、彼はそれを断固拒否し、会津を攻め、悲惨な殺戳をした。
 幕末に会津藩が京都守護職に就き、召し抱えた新撰組による勤王の志士達への弾圧に対する怨みを、彼は晴らしたいだけだ。私怨で戦争を仕掛けるとは、私から見ると最低の司令官である。
 会津では長州の名産・ふぐを食べないと聞いて、もし、その話が事実なら、彼等に伝えたいことはがある。
 「口にしてはいけないものは、ふぐではなく鰹だ」
 大河ドラマ「龍馬伝」の第一話のラストシーンで龍馬が発する「憎しみからは何も生まれんぜよ!」という台詞を思い出した。
 後に板垣は明治政府の高官となるが、征韓論で敗れて、下野し、政府を攻撃した。
 『あなたに自由民権や人権を語る資格が果たしてあるのだろうか?』
 私は板垣退助の銅像の前でつぶやいて、高知城を後にした。
 その後、龍馬ゆかりの地を見学し、ホテルに向かった。
 ホテルに着く前に、“はりまや橋”を渡った。幕末に坊さんと小町娘が恋に落ち「坊さんカンザシ買うをみた」と、よさこい節に歌われている。ちなみに「よさこい」とは「夜来い」という意味で、男女交際の歌だそうだ。

 その橋は朱色に塗られた木製で作られ、走り幅跳びのオリンピック選手なら、楽に飛び越せる長さである。
 『随分小さな橋ですね』と私が運転手に問うと、
 『お客さんが渡られた赤い橋は、観光用に造られたもんやき、本物は今このタクシーが止まっちゅう所ですよ』
実際は片側3車線の幅広い道路に大きな橋が架けられていて、石でできた欄干には「はりまや橋」と書かれている。
『立派な橋ですね』
私が感心すると、
 『江戸時代の橋はもっと小さかったらしいですろう。なんせ、川に架けられた橋じゃーなく、お城の堀に架けられた橋やったがよ。江戸時代の豪商の播磨屋さんと櫃屋さんが、お互いに行き来きするために架けたたらしいですよ』
 もし、よさこい節に、はりまや橋が歌われていなければ、こんなに全国的に有名になるとは思えない。特に周りの景観が良いわけではない。明日行く予定の四万十川の沈下橋に期待したいと思い、タクシーを走らせた。

なめたらいかんぜよ!

 その日の夕食は2年ぶりの再会となるE社のMRであるN氏と囲んだ。彼は私の医院の開業当時の担当者だった、彼は5年間位当医院を担当し、転勤した。その後、年賀状・暑中見舞いのやりとりはしていた。
 8年前、彼は鹿児島に赴任した。2年前、NHK大河ドラマ「篤姫」で薩摩がブームになり、私も薩摩の旅を9月にした。(江戸川276号に記載)丁度その時、彼と約15年振りの再会をした。
 彼が紹介してくれた薩摩芋焼酎の楽しみ方のお陰で、それまで殆ど口にしなかった私が、今では酒と言ったら芋焼酎と言うくらい、他の酒を口にしなくなった。
 鹿児島で再会した1ヵ月後の10月、彼に高知への転勤の辞令がおりた。そして、今回、2年振りの再会となった。
 偶然をお互い喜びながら、土佐料理と日本酒を満喫した。土佐では猪口に小さな穴があいていて、酒が注がれた杯は置くことは出来ず、飲み干すしかない。そして献杯と言って相手に渡し、また酒を注ぐ。小さな穴を押えて猪口を持っている時のみ、酒を飲むのを休める。結構辛い習慣である。
 その店を出た後、先に妻をホテルに帰し、我々二人は2次会と称して夜の繁華街へと身を隠した。
 同じテーブルに座ったホステスさん達に、私が期待したなまりがなかったので、土佐弁の話で盛り上がった。
 映画「鬼龍院花子の生涯」での名場面で、美人女優・故夏目雅子が発する名台詞「なめたらいかんぜよ・・・!」
 『はや土佐じゃあ、ほがな言葉を使いやぁせん』
 彼女等は笑いながら答えた。
 どうやら「・・・ぜよ」は古い男性言葉らしい。
 時間もあっという間に経ち、その店を出ることにした。エレベーターの所までホステスさん達が見送ってくれた。
 『最後に思い出に言ってほしいな・・・』
 ホロ酔い気分になった私が頼むと、笑っていた彼女達の一人が『土佐の女をなめたらいかんぜよ・・・!』と発した。
 その迫力に圧倒された。その時エレベーターのドアが開いた。後ずさりをしながら、我々はエレベーターの中に入った。ドアが閉まる前に、彼女等は笑って手を振ってくれた。ドアが閉まった後、『次の転勤地は山口県を期待するよ』と私は彼に言った。
 『何故ですか?』
 『そうなったら、萩・津和野の旅を計画するから』
 『社長に頼んでおきます』
 二人は冗談を言いながら別れた。

土佐の自然

 翌日、ホテルを出て朝市を見学後、高知駅から中村駅へ向った。車窓からは右手に山、左手に海が迫ってくる。四国は80%以上山だ
そうだ。中村には四万十川が流れている。この川の景観の素晴らしさは多くのメディアから紹介されている。最も有名な場所は四万十川に架かる沈下橋ある。私達が到着すると日曜日にも関わらず誰もいず、その橋を独占できた。
 『お客さん、いい時に来ちゅうね。昨日じゃったら4月10日は四万十の日で、多くの観光客や屋形船での結婚式で人・人・人でこじゃんとやったが』
タクシーの運転手は私達を褒めるように言った。
 『この分だと、今日は他の観光地もすいちゅうかも知れんねぇ』
その言葉を聞いて、私達は当初四万十川のみの観光だったのを、土佐清水から足摺岬へ足を伸ばすことにした。
 運転手の営業にしてやられた。彼の言う通り、道はすいていて足摺岬までは1時間位でたどりついた。
 道中、多くのお遍路さん達を見かけた。足摺岬には第三十八番札所・金剛寺がある。
 『バスやタクシーで乗りつけるお遍路さんもおるけんど、歩いて回りゆう人もおるんですよ』
 『大変ですね』
 『車の運転ばかりしゆうあしは出来やーせん。時々倒れる人もおるみたいやき。御利益どころか厄ばあ貰いゆうが』
 運転手は笑いながら話した。
 しかし、私はとても笑う気分にはなれなかった。彼等の多くには色々事情があって、心に願いを込めて過酷なお遍路を続けているのであろう。体に気をつけて、最後まで成し遂げてほしいと思った。
 この足摺は幕末に活躍したジョン万次郎という人物が生誕した所である。彼は漁師の次男として生まれ、14歳の時に海で遭難し、半年間無人島で生活していたところ、米国の捕鯨船に助けられて米国に渡った。彼の性格・勤勉さは米国人にも評価され、米国で高等教育を受けることができた。そして幕末、日米協議の通訳として、また日米の架け橋として活躍した。維新後、彼は東大の前身である開成学校の教師として学生の指導にあたった。誠に激動の人生を歩んだ。

 3日目の朝は、どしゃ降りだった・・・・・・。

 30年後の高知は東京に比べて激しい変化はないにせよ、徐々に変貌していた。市内中心にあったデパートは取り壊され、私を泊めてくれた友人の父親が経営するレストラン・肉屋は数年前に閉店したそうだ。そして、30年前、私を乗せて夕陽の中を出航したサンフラワー丸の姿も今はない。
土佐において、坂本龍馬の足跡は永遠に残るだろう。しかし、旅人にとって大切なものは記録ではなく、それぞれの旅人の人生経験に応じた感動や思い出を得て、日常生活に戻っていくことであろう。
羽田に到着すると、激しい雨が降り続いていた。私達が雨雲を土佐から運んで来たようだ。これで、今春の桜も終わりになるのであろう・・・。

江戸川区医師会・会報誌・江戸川2010年5月号に記載

 

紀行文 第8作 みちのくの旅

 5月の新緑の中、東北新幹線「はやて」は仙台に向って疾走している。東北新幹線に乗車したのは久し振りである。平日の午前なので空いていると思っていたが、予想外に車内は8割位の席が埋まっていた。
 東北を訪れたのは35年前の自動車旅行が初めてである。私が大学に合格した春には、兄が既に車の免許を持っていた。結婚を控えた姉は結納を済ませ、やっと自動車免許を取得した。それを祝して、父が姉に「セレステ」という車をプレゼントしたので、兄姉弟3人で東北を車で旅をすることにした。姉の運転の練習を兼ねていたのだが、母はこの旅に反対した。
 『万が一、交通事故を起こして、3人の子供を一度に失うことは辛い』
 なんとも不吉な事を言った。
 旅の途中、姉が運転担当の東北自動車道で、突然強風にあおられて、『キャー!』と声を発して、ハンドルから手を離した。それを見た助手席に乗っていた兄は、咄嗟にハンドルを握り、車は無事に停車・・・。
 母の不安が現実になりそうになった。
 その後の旅は全て兄が運転することになった。車の運転は自分には合わないことに気付いた姉は、セレステを実家に残して嫁いだ。その車は結局、免許を取得した私に譲られた。そんな事を思い出していると「はやて」は約2時間で仙台駅に到着した。
 この東北の旅は1ヶ月前に持ち上がったものだ。
 昨年、私は日本耳鼻咽喉科学会評議員に推薦された。当初は丁重に断った。しかし、
 『特別にたいした仕事はないから、評議員は名誉なことだから』と説得された。
 私は徐々に心が傾いた。社会がまだ私を必要としてくれているのかなと思った。そういえば5年前に娘の高校のPTA会長を依頼された時も、最初は断ったが、妻から『社会から、必要とされる時を大切にしてみたらどう?』と言われて、受諾してしまった。結果的に、PTA会長の職務は子供の学校教育の現場を理解できたし、人生にとって良い経験や思い出となった。結局私は評議員を快くお引き受けすることにしたのだ。
 今回、第111回日本耳鼻咽喉科学会は東北大学が主催で、5月に仙台で行われる。2ヶ月前に評議員会の案内状が手に届いた。その会は平日だったので、当初は欠席を考えていたが、教授から『欠席したら駄目だよ。今回は理事選挙もあるんだよ。それに評議員の欠席を問題視している先生もいるからね』と言われた。
 『エッ、話が違うじゃないか』と私は心の中でつぶやいた。
 『私は東北大学出身だから、仙台を案内するから一緒に行きましょう』
 教授は私に出席を強く勧めた。
 自分の医院を休診にして、学会に出席にするのは初めてかも知れない。「これも社会が今の私をまだ必要としている」と自分に言い聞かせて、学会に出席することに決めた。
 かくして、久しぶりの東北新幹線乗車となった訳である。
 評議員会は午後1時半からだった。私はその前に仙台市内を少し見学しようと思った。

仙台城

 仙台城は青葉城とも呼ばれている。杜の都・仙台にふさわしい名前だ。今年の春は寒かったせいか、5月中旬の仙台はまさに芽吹いた若葉が初々しい新緑の季節であった。仙台駅からタクシーに乗車し、広瀬川を渡ると青葉城に到着した。
 明治時代、廃藩置県の際、日本中の多くの城が取り壊された。青葉城もその一つだそうだ。今は跡地のみだが、その『敷地面積は日本一』とタクシーの運転手は誇らしげに語っていた。
 本丸があった高台から、仙台市内が一望できる。そこには馬に乗った伊達政宗像がそびえ立っている。この像は三代目で、太平洋戦争の際に、戦備のため調達されたことは悲劇である。伊達政宗と言えば、独眼流として有名だが、その像の顔は両眼であった。生前の政宗の遺言だったらしい。「両眼で伊達藩の行く末を見守りたい」
 派手なファッションが似合う男を伊達男と呼ぶ。豊臣秀吉の再々の上洛命令に従わなかった政宗は秀吉の怒りの本気を知り、爆発前に政宗は上洛した。その際の装束が派手だったので、都人は「伊達男」と呼んだらしい。また、小田原攻めの際、遅参した政宗とその家臣達は白装束(切腹の際に着用)で現れ、秀吉の度肝を抜いたそうだ。
 豪胆で度量の大きな政宗の心意気が感じられ、戦国大名の中でも、今ブームの“歴女”に人気を誇るのが分る。

残り物には牛タンあり

 青葉城跡を後にし、仙台市内を散策した。まず、一時期日本に移住した中国の作家・魯迅の旧居を見た。昔のままで、手入れをしているとは思えず、今まで倒壊せず残存していることが不思議だ。魯迅の家のそばに東北大学が堂々と存在する。東北大学は日本を代表する大学の一つだ。数多くの科学者を輩出した。最近有名になったのは2002年ノーベル化学賞を受賞した田中耕一博士だ。科学者だけでもない。ミュージシャンの小田和正も東北大学出身だ。
 東北大学キャンパスを散策した後、昼食を摂ることにした。運転手に『仙台に来たなら、牛タンを食べていかなくちゃ』と言われ、牛タンを所望することにした。運転手さんの誇る牛タンと仙台の関係は・・・。
 戦後、連合国軍が仙台にも進駐した。当時、牛肉が大好きだった米兵が食べなかった部位があった。一つは“しっぽ”、もう一つは“舌”だった。焼き鳥屋(味の太助)がその牛の舌(タン)を払い下げてもらって、それを美味しく料理し客に食べさせた。20年前位よりグルメブーム、御当地ブームが巻き起こり、町起こしとして、仙台の牛タン(タン)に脚光があたったそうだ。
 まさしく“残り物には福、いや牛タンあり”である。

平泉への旅

 評議委員会・日本耳鼻咽喉科総会が無事に終わり、私は妻と待ち合わせて、平泉に足を延ばすことにした。平泉といえば中尊寺だ。昨年、世界遺産への登録申請が残念ながら却下された。現在平泉は人口約8,400人の町だが、12世紀・藤原三代の頃は10万人を超える人々が住み栄えたという。東北新幹線の一ノ関駅で在来線に乗り換えて、平泉で下車した。

 日本の歴史上、最初に東北地方が注目されるようになったのは、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され、
大遠征した頃であった。その後西暦801年、陸奥の蝦夷人は大和朝廷に恭
順の意を示した。大将軍は戦勝は毘沙門天の御加護と感じ、その御禮に京の
清水の舞台を模して九間四面の精舎を建て、百八躰の毘沙門天を祀り、国を
鎮める祈願所として窟毘沙門天堂(いわやびしゃもんどう)と名付けた。
 平泉駅から車を約10分位走らせると、のんびりとした田園風景の中に、達谷西光寺が姿をあらわす。想像もできないほどの太古の昔に自分の身を置くことに感動を覚えた。

藤原三代


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 坂上田村麻呂による奥州平定後、平和な時代が続いていたが、1050年、陸奥六郡の司・安倍頼良(後に頼時と改名)が反乱を起こし、陸奥国司・藤原登任の大軍を破った。前九年の役の発端である。朝廷は源頼義を陸奥守鎮守将軍に任命した。安倍頼時・貞任の父子対源頼義・義家の長い戦いが始まった。その後、戦線膠着状態となり、源頼義は出羽の俘囚の長・清原光頼・武則兄弟に助力を求め、源氏・清原連合軍は安倍氏を滅ぼした。その結果、今度は清原氏一族が勢力を伸ばすことになった。
 安倍頼時の娘は藤原経清(陸奥守・藤原登任と一緒に都から下向した藤原一族の係累に連なる者)に輿入れをして、清衡を生み、また清原武貞との間で家衡を出産した。また、武貞は真衡を養子に迎えた。
 

 1083年、この真衡の家に清衡軍と家衡軍が襲い、後三年の役の始まりであった。陸奥国鎮守府将軍・源義家の登場で、清衡・家衡は義家に降伏し、真衡は病死して、奥州六郡は義家のにらみのもと清衡・家衡で分けあって治めることになった。しかし、清原氏の嫡家をめぐって今後は清衡と家衡が対決し、義家の加勢で清衡が勝利した。その結果清衡は奥州藤原氏の祖となり、本拠地を平泉に移し、中尊寺の造営を始めた。その後、基衡、秀衡と受け継がれ、約100年に渡り平泉文化を築き上げた。名馬や砂金も多量に採取され、経済的にも豊かになった。その繁栄のシンボルが金色堂であろう。皆金色の阿弥陀堂は荘厳の限りが尽され、まさに極楽浄土を現世に表している。

 この平泉を詠んだ歴史的に有名な歌人がいた。一人は西行法師だ。平家と南都僧兵達の戦いで東大寺は炎上してしまった。その大仏の再建立のため全国に勧進(寄付)を巡行していた。奥州藤原氏にも勧進を依頼するため平泉を訪れた。その際、詠んだ歌、
「取り分きて心も凍みて冴えぞ渡る
衣河見に来たる今日しも」“山家集”
 そして、もう一人は松尾芭蕉だ。元禄2年(1689年)、平泉を訪れた芭蕉は“奥の細道”の中で、
「五月雨の降残してや光堂」と詠んだ。

 私達が訪れた5月中旬、新緑の季節に霧雨が降りそそぎ、まさに芭蕉が詠んだ俳句と同じ光景を味わうことができた。
 平泉には、その他に、毛越寺・無量光院が造営された。奥州における身内同士の数々の戦を経験した藤原清衡は、この地に浄土を築きたいという願いで、平泉を造営した。しかし、現在は無量光院に建造物は残存していないが、址地に生えた草木がまさに理想郷を感じさせる。

判官びいき

 平泉と関わった武将と言えば、源義経である。平家物語によれば、鞍馬山を脱出した牛若丸は金売吉次(政商)と共に平家の目を逃れて平泉を目指した。途中で元服し義経を名乗った。三代目秀衡の保護の下で義経は大きく成長した。兄・頼朝の挙兵話を聞いて、義経は富士川に駆けつけた。
 大天狗と評される後白河法皇は日本歴史上最悪な策略家であり政治家であろう。法皇は平家とともに政権の中枢を手に収めたのに、平家追討の院宣を全国の源氏に出し、木曽義仲が平家を都から追い出すと、今度は義仲追討の院宣を頼朝に出した。頼朝の指揮下の義経が木曽義仲を落とし、更に平家を滅亡させると、法皇は義経に左衛門少尉検非違使という官職を授けた。ここから人々は義経のことを「判官殿」と呼ぶようになった。
 頼朝は武士社会の確立を目指し、自分の許可なく朝廷から官位を受けた者に対して、厳罰で臨んだ。この頼朝・義経の兄弟不仲を知って、法皇は義経に頼朝追悼の院宣を与えた。しかし、頼朝の激怒を知った法皇は、手のひらを返したように今後は頼朝に義経追討の院宣を出した。
 義経は弁慶以下数名の部下と共に奥州平泉へ向った。歌舞伎「勧進帳」は一行が落ちのびる途中、安宅の関を通行する際を舞台化した名作である。藤原秀衡は義経らを受け入れ、また保護した。秀衡は息子・泰衡という人物に不安感を持っていた。秀衡は病に倒れ、病床に息子達を呼び、義経をたてて、鎌倉と対決し、平泉の独立を守るように遺言を残した。
 しかし、秀衡が他界すると四代目・泰衡は頼朝の圧力に屈し、義経を攻め自害に追い込んだ。義経が自害した場所が高館・義経堂である。義経堂から東を望むと北上川が見え、その向こうに秀峯・東稲山が見える。かつて安部頼時の時代に桜の木を一万本植えた、いわゆる桜の名所だ。義経堂には、本尊として木造の源義経公像が祀られている。勇ましい甲冑姿は、若き英雄・義経の在りし日の姿を彷彿させる。
 松尾芭蕉もこの地を訪れ、
 「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだ俳句は、多くの日本人が周知のところだ。
 義経は孤独な生い立ちながらも、平家追悼に大きな功績を残したが、法皇に利用され、兄・頼朝からは危険視され、泰衡からは裏切られ、早過ぎる死を遂げた。
 しかし、義経とその運命に人々の同情が募り、「義経は生きのびてモンゴルに渡り、その後、元として日本を攻めてきた」という伝説が残っている。
 そして、日本人の「負けている方を応援する習性」はこの義経(判官)に対して、悲哀の気持が受け継がれたものであろう。

盛者必衰の理をあらわす 奢れる人も久しからず

 義経最期の地、高館に登る頃には霧雨もすっかり上がり、雲の隙間から太陽が顔を出し始めている。平泉の旅も終わりに近づいて、やっと天気が回復した。平泉駅へ向う途中、民主党の影の実力者のポスターが目に止まった。彼の選挙区はさらに盛岡に近い水沢だそうだ。
 昨年12月、彼は訪日した中国の高官を天皇陛下に接見させようとした。その高官は中国の国家主席でもなく、首相でもない。また、大使としての赴任挨拶でもない。宮内庁は戸惑った。しかし、彼の豪腕ぶりが発揮され、陛下との会見となった。
 平家全盛期に、それと似た場面があることを思い出した。1170年平清盛は日宋貿易を栄えさせるために、中国の一役人を清盛の福原の別邸で、後白河法皇に引見させた。
 右大臣九条兼実は「玉葉」に「延喜以来未曾有のこと、天魔のなすどころか」と怒りをあらわにした。
 「平家にあらずんば人にあらず」
 平時忠(清盛の義弟)が言ったと伝えられている。しかしながら、この中国の役人と法皇との会見後、1185年平家は壇ノ浦で滅亡した。
 東京へ向う新幹線の中で「普天間基地の県外移設に暗雲」とニュースのテロップが流れてきた。
 昨年9月に民主党は政権の座に付き、各種団体や陳情団、また日本医師会も政権与党へと傾いている。そして、その陳情を独占的に引き受けているのが幹事長だ。

 平家物語は「盛者必衰の理をあらわす…」と語っている。
 時代は違えど、東北のこの地を守ろうと願った藤原三代、そして伊達政宗、時代に翻弄され無念にも散った源義経。こうした先人達の思いがゆかしく立ち昇ってくる旅であった。

江戸川区医師会・会報誌・江戸川 2010年9月号に記載

 

紀行文 第9作 肥後・天草を訪れて

 熊本駅から「A列車で行こう」という名の列車に乗って、天草の入り口・三角駅に到着した。
 この列車は日曜日だけ運行する観光用のものだ。おそらくJR九州が大ヒットしたJAZZ・「A列車で行こう(作曲:ストレインホール):Jazzの本場ニューヨークに走る地下鉄A Line」と天草のAをかけたものだろう。2両編成の車内にはアンティークな家具を取り付けた売店があり、オリジナルの観光記念品を販売し、乗車した客の気分を更に盛り上げている。JR九州はこの他にも蒸気機関車をはじめ数多くの観光用列車を走らせている。彼等の営業努力には敬意を表す。
 三角駅からフェリーに乗って天草の本渡港へ向った。天気は晴れだったが、中国大陸からの黄砂の影響なのか、本来見ることができる島原半島は霞んでいた。フェリーの乗客の多くはたまたまなのか、60才台後半に見えるカップルがほとんどだ。これは日本の人口動態の縮図なのかもしれない。私達の10年後を見るようだ。私も久しぶりの妻との二人旅だった。二人の子供達は誘っても、もう付いて来る筈がないので、当然妻と二人旅となる。
 私と妻は趣味がほとんど異なる。体育会系の私と文科系の妻。しかし、唯一共通する趣味があった。それは歴史が好きだということだ。しかし、私は政治史や戦史が好きだが、彼女は源氏物語や和歌のような古典文学や文化史を好むようだ。
以前より、私は1549年キリスト教が鹿児島に上陸して、どうして天草に根付き、そして島原・天草の乱を起したのかが疑問だった。彼女もキリスト教という宗教の歴史的背景、世界観に興味を抱いているようだ。そこで今回、肥後・天草を旅先として選んだのだった。
 フェリーの船上は風が強かったがすがすがしく、昨日に見学した熊本城を思い浮かべていると、加藤清正、小西行長、細川忠興の三人の武将の会話が聞こえてきた。
 まず、小西行長が口火を切った。
『加藤清正、御主も肥後北半分を秀吉様から拝領したな。尾張の刀鍛冶のせがれがよくここまで出世したもんだ。それなのに、何故関ヶ原の戦いの時、東軍に味方したんだ。この恩知らずめ』
『小西行長よ、御主には言われとうないわ』清正は直ぐに反論し、更に続けた。『御主も肥後南半分と天草を秀吉様からいただいたな。大阪の薬商人の息子が藩主になるとはな・・・』
『大きなお世話だ』行長は不愉快そうだった。
 すると清正は少し笑顔で話し出した。
『行長、御主が天草の豪族に手をやいていたので、天正17年、わしは1万もの軍勢を送って一緒に天草を制圧したではないか』
『そうだったな』行長が相槌を打った。
 今度は、清正は険しい顔に変わった。
『なのに御主は朝鮮出兵の際、対馬領主の宗の奴と結託して、わしを出し抜こうとしたな。それに御主はあの茶坊主の石田三成と通じ、秀吉様にわしの讒言をしただろう。そもそもわしは三成が大嫌いだ。わしらが朝鮮の戦で周囲され、飢えても戦い、命からがらで脱出して来たのに、三成の奴め、大阪城でのうのうと暮し、わしらの苦労など全く知らず、ただ指示するだけだった。そんな三成に御主は騙されたのだ』
『清正よ、御主は秀吉様の遺児・秀頼様に弓を引いたのだぞ。この不届者め!』
 行長も負けてはいなかった。
『何をぬかすか!行長。御主はわしが築城した熊本城をしっかり見たか?あれは難攻不落の城だ。朝鮮での戦の経験が生かせておるわ。城内には120個以上の井戸を掘り、畳には芋の茎をまぜ、壁には干瓢を入れておるわ。それに、わしはいずれ秀頼様をお迎えして、この城の主になってもらうと思っていたのだ。この間を見よ。これは秀頼様のためにこしらえた部屋だ』

 清正は語気強く答えた。
『そうであったか』行長は納得したようだった。
『この恩知らず者と言えば。何故、御主はキリスト教なんぞ信仰したのだ?そのせいで、御主の領地・天草はキリシタンばかりおるわ。秀吉様は1587年に禁教令を発布したではないか。関ヶ原の合戦後、徳川家康はわしに天草を与えると言ったが、わしは断わった。そんな土地をもらっても、キリシタンを弾圧する仕事が増すだけだからな。わしは無駄な殺生はしたくない。そうしたら、ちゃっかり唐津藩が天草を拝領することとなり、2万石しかない貧困な土地なのに見栄を張って4万石と家康に報告したものだから、農民達はたまったもんじゃない』
 清正の疑問の声に行長が答えた。
『清正の申すことはもっともなことだ。そもそも1549年鹿児島に上陸した伴天連達は長崎に向って宣教に従事し始めた。織田信長様もキリスト教を保護した。1566年、天草にキリスト教が伝わり、地元の豪族達は信長様と同様に、西洋の新しい文化に注目し、貿易で富を蓄えるため黙認した。1589年頃、キリシタン文化は黄金期を迎え、天草には宣教師養成のための「コレジョ(カレッジの語源)」が開設され、島内で約2万5千人の信者がいた。1587年秀吉様が、1612年に江戸幕府が全国にキリスト教禁教令を公布。宣教師達は追放され、キリシタン弾圧は厳しさを増した。そこに清正が指摘した重い年貢に対する反発が重なり、不満がついに爆発。1637年10月25日、16才の天草四郎時貞を総大将として農民達は立ち上がった。天草・島原の乱が勃発した。これは日本最大の農民一揆だ。しかし、1638年2月28日に鎮圧された』
『多くの農民達が殉死したわけか』
 清正はその悲惨さを確認しているようだ。
『清正、この死は残念ながら殉死として扱われない』
行長は悲しい顔になった。
『行長、何故だ?』
『キリスト教において、武器を手にして戦って死んだ者は殉死ではないのだ』行長は冷静だった。
『そうか、それは無念であろう。無念と言えばわしらもそうだ。行長は関ヶ原で敗北したのだからやむを得ないが、東軍に味方した福島正則も広島の地を拝領したが、その城を幕府の許可なく改築したと難癖を付られて改易された。わしも、聚楽第で秀頼様と謁見した後、急に体調が崩れ、床に臥し、1611年そのままあの世に旅立ったわい。わしは家康の家臣に一服盛られたと思っている。わしの死後、家督を継いだ忠広が1632年謀反の疑いをかけられて改易になった』
『そもそも徳川はわしら・豊臣家臣団を全く信用していないのだ。阿波を拝領した蜂須賀は幕府の疑いの目を少しでも減すため踊りを始めたそうだ』
 行長も清正も同じ意見だった。
『加藤家のあとに熊本城に入ってきたのは、あの細川忠興の息子・忠利だ』
 そんな時、細川忠興が姿を現し,声をかけてきた。
『清正に行長、雁首そろえて何やっているんだ』
『ちょうど今、御主の噂をしていたところよ。そもそもわしは細川家が大嫌いだ』清正は感情をあらわにした。
『それはまた何故?』忠興はその訳がわからないようだった。
そこで、清正は感情を押し殺して話し始めた。
『細川家が歴史に登上するのは鎌倉時代末期だ。私本太平記(吉川英治・著)によれば、足利高氏(後に尊氏)は鎌倉幕府・執権・北条高時に命じられ反幕府軍を鎮圧するため、鎌倉をたち京へ向った。そんな中、高氏は幕府へ反旗をひるがえす決意をした。三河の矢作陣で三河足利党(吉良・今川・一色などの当主から斯波・高・畠山等の同族)が集まった。しかし、足利氏の血をひく細川はなかなか参じて来なかった。しびれを切らした吉良が“細川は裏切ったとみなし、討ちに行く”と言い出した。高氏は吉良をなだめていると、細川和氏・頼春兄弟がやっと現れた。おそらく彼等はどちらが得か天秤にかけていたのだろう。それなのに室町幕府が成立すると、細川頼之はちゃっかり管領という幕府の重要な職を手に入れた。また細川勝元は畠山氏の家督問題に介入して、1467年応仁の乱のきっかけを作った。その結果、京の町は焼け野原となった。その後、1493年細川政元は明応の政変を起し、それが結果的に戦国時代の幕開けとなった。戦国時代をしぶとく生き残ろうとした細川忠興、即ち御主は明智光秀の娘・玉(洗礼名:ガラシャ)と結婚した。1582年本能寺で光秀が織田信長様を討った時、まさか秀吉様があんなに速く備中高松城から戻って来るとは思わなかった。光秀は天王山・山﨑で秀吉様と戦うことになり、必ず御主が加勢してくれると信じていた。しかし、御主の父親・藤孝は頭を丸めて幽斎と名乗り、中立の立場をとった』
『あの時は・・・』
 忠興は清正を制するように、声を出したが、今度は行長が話を更に続けた。
『関ヶ原の戦の時でも、御主は清正と一緒に東軍に味方した。妻・ガラシャのいる館は必ず石田勢に攻撃されると分かっていたよな。キリシタンであるガラシャは自害できず、家老に槍で胸を突かせた』
『行長、もう止めてくれ!』忠興は自分の耳を塞いだ。
『行長が許しても、わしはまだ止めぬ。その後、御主の息子・忠利は我が加藤家が改易された肥後に入封したわけだ』
 清正は忠興を睨み付けた。
『ぬかしたいことはそれだけか?』忠興は居直った。
 すると清正は、今度は私情を入れず、淡々と話し出した。
『まだ、その続きがある。御主の子孫の話だ。江戸幕府が倒れて、明治・大正・昭和・平成と時代は移った。細川護照が1983年参議院から熊本県知事に就任した。2期8年務めて、また参議院議員・衆議院議員を経て1993年8月9日内閣総理大臣まで昇りつめたが、佐川急便問題に関与したのではないかと国会で自分の身に追及が迫ると、翌年4月には政権をあっさりと投げ出した』
『まあ、子孫達にも色々な事があったじゃないかな?細川家は現在では政治とはかかわりをもたず、文化・芸術の発展に寄与しているそうだ』
『そうか・・・』行長は納得した顔を浮かべた。
 すると、忠興は細川家の話をそらすかのように、熊本城の話に切り替えた。
『ところで、清正、御主から譲り受けた熊本城は確かに立派な城だったな。

約5kmの優美で堅牢な石垣の城郭に囲まれ、その外側は空堀で守られている。難攻不落なこの城の実力をみせたのは、江戸時代が終わってからとなった。明治4年(1871年)廃藩置県後、熊本に鎮台(陸軍駐屯地)となり、城の主は明治政府高官がなった。明治10年(1877年)西南戦争が勃発。谷千城(新政府軍・鎮台長官)が守る熊本城に西郷隆盛が率いる反政府が迫った。開戦3日前2月19日、原因不明の出火が起こり、天守閣が焼失してしまった』
『う~。無念』清正は渋い顔となった。
 忠興は更に話を続けた。
『しかし、それでも熊本城は反政府軍の猛攻を耐え切った』
『どうだ・・・忠興。わしの築いた城の堅牢さは・・・』
 清正のその語り口調は、忠興にだけでなく、行長に対しても自慢げだった。
『その後、昭和35年(1960年)天守閣再建・平成10年(1998年)熊本城復元・整備事業が始まり、平成17年飯田丸5階櫓復元。平成20年本丸御殿大広間を復元した』
 忠興は更に付け加えた。
『感無量だ!』清正は満面に笑みを浮かべた。
『清正よ。確かに熊本城は名城として日本全国に知れわたっている。しかし、今、熊本を日本中で有名にしているものがあるんだ』
 今度は行長が話を変えた。
『何だ!それは?』
『これだよ』行長は懐から黒いものを取り出した。
『けったいな熊みたいな物だな』
『その名を“くまもん”というキャラクターだ。何でも、ゆるキャラ部門で日本一になったらしい』

行長は最近仕入れたネタを皆に披露した。
『こんなものに人気が集まり、わしらのことなどもう忘れられてしまうかもな・・・』
 清正が肩を落とし、何気なく寂しそうな行長、忠興を見て、
『加藤清正、小西行長、細川忠興、あなた方の名前を熊本県民だけでなく日本人の多くは忘れることは絶対にないよ』と私が話しかけると…。
『何、一人言を喋っているの?』と妻に声をかけられた。

 フェリーは天草下島・本渡港へ到着したようだ。約1時間の船旅だった。下船後、車でまず「天草キリシタン館」へ向った。平成22年7月に、本渡の街並を一望できる城山公園にリニューアルオープンし、天草・島原の乱を中心としたキリシタンの歴史が臨場感豊かに分かりやすく展示され、中でも国指定重要文化財の天草四郎陣中旗は必見だ。
 天草・島原の乱の原因とその顛末の悲惨さを心に刻み、「天草市立コレジョ館」を訪れた。コレジョとはカレッジの語源となる言葉で、宣教師養成所だった。遥か400年前、伊藤マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチの4人は13~14才の少年達で、天正少年使節団と呼ばれ、日本人として初めてヨーロッパに渡り8年と5ヵ月の歳月をかけ、ローマ法王に謁見し、ヨーロッパの知識を天草の人々に伝えた。中でも彼等が持ち帰った「クーテンベルク印刷機」で平家物語や伊曽保(イソップ)物語、ラテン文学など「天草本」が出版された。
 当時の華開いた南蛮文化に想いを寄せながら、「崎津天主堂」を訪れた。ひっそりとした漁村にたたずむゴシック様式の天主堂だ。都会暮しに慣れた私にとって、少し過去にタイムスリップしたように感じた。周囲一帯は「日本渚百選」「日本のかおり風景100選」「国の重要文化的景観」にも選ばれているそうだ。

 もう一つ天主堂を見学した。丘の上に建つロマネスク様式の「大江天主堂」だ。明治維新後、キリスト教解禁後、天草で最も早く造られた天主堂で、現在の建物は昭和8年(1933年)、天草への伝導に生涯を捧げたフランス人宣教師ガルニエ神父が地元住民に協力して建立した。明治40年(1907年)、与謝野鉄幹・北原白秋・木下杢太郎・吉井勇・平野万里の5人がキリシタン史跡探訪などを目的に九州を中心に旅行。一行は天草でガルニエ神父と出会い、天草のキリシタンの歴史や異国情緒豊かな自然に心打たれ、その紀行文を「五足の靴」として発行した。

“白秋とともに泊りし天草の
大江の宿は伴天連の宿”
 私も同じ気分になり、この旅を書き残すことにしたのである。
 陽が傾き始め、私達は東シナ海に面した国道389号線を利用して宿泊予定の本渡の街へ戻ることにした。途中、巨大建物が海辺にそびえ建っていた。火力発電所だ。天草下島は最近、数個の市町村が合併し、天草市となったそうだ。しかし、この火力発電所を保有する苓北町は合併を拒否したそうだ。火力発電所を運営する電力会社から多額の税金が苓北町に納められているため、町は裕福な財政だそうだ。それを聞かされると、苓北町の国道389号線沿いには、田舎の町には目立つような近代的な郵便局や集会場が建っているように思える。やや現実社会に引き戻されたようだ。

 翌日、天草五橋【松島橋(五号橋)・前島橋(四号橋)・中の橋(三号橋)・大矢野橋(二号橋)・天門橋(一号橋)】を渡って宇土半島の宇城市を通過した。ここから望む八代海は不知火海とも呼ばれている。不知火とは誰も知らぬ火竜燈とも呼ばれ、旧暦の8月1日(八朔)の未明、海岸から数kmの沖に、始めは一つか二つ「親火」と呼ばれるものが出現し、それが左右に分かれ数を増やしていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並び、その距離は4~8kmにも及ぶという。この現象は日本書紀にも記載されていて、景行天皇が九州南部の先住民を征伐するために訪れた際、この火を目印に船を進めたとされている。この現象の原因は諸説あるがいまだ確定的なものはない。このような不思議な現象を正確に科学的に解明する必要があるのだろうか。人々の色々な想いをふくらませたままでいいではないであろうか。
 車は九州自動車道に乗り、立花藩の城下町であり、北原白秋、オノ・ヨーコの生れ育った町でもある柳川へと向った。
 たった2泊の旅ではあったが、肥後における熊本城、キリシタン文化と天草の関係が私なりに充分理解できた旅と言える。また、九州は日本の歴史上で表舞台に登場することが少ないが、その歴史は奥深く、私の心を更に引きつけてやまない。

江戸川区医師会 会報誌・江戸川2013年7月号に記載

 

紀行文 第10作 天の橋立・城の崎にて

 平成27年の9月は数年振りの大型連休が訪れた。この連休を5月のゴールデンウィークに対してシルバーウィークと呼ぶ人も現れた。余談だがゴールデンウィークは映画業界が名付けたもので、NHKは大型連休と呼ぶ。この連休を利用して旅に出かける人も多いであろう。私も御多分に洩れず旅行したくなった。元来、私は人工的に造られた町(テーマパーク)より、人々が自然発生的に集まって造った古びた温泉街の方が好きだ。そこで、地図を広げて日本全国をしみじみと見回してみると、城崎という名の地名が兵庫県の日本海側にあることに気付いた。そして、その近くに日本三大名所である天の橋立があることも分かった。
 城崎温泉は文学者・志賀直哉が電車にはねられて療養のため訪れ、小説「城の崎にて」の作品が誕生した場所として有名だ。最近では空出張を指摘され、号泣しながら弁明会見?意味不明の記者会見を行った兵庫県会議員の空出張先が城崎であったことで世間を賑わせた。

天の橋立

 東京駅を8時40分の新幹線で出発し、京都で山陰本線に乗り換え、福知山でまた大阪発のコウノトリ号に乗り換え天橋立駅に2時30分頃に到着した。後でコウノトリは城崎と大いに関係があることが分かった。
 車内は予想していたほどの混雑はなく、孫連れの家族旅行者が近くに座り、微笑ましい光景だった。
「私も早く孫と一緒に旅行したいな・・・」と妻が呟いた。私は思わず自分の年を認識させられた。同期にはすでに「じぃじ…。ばぁば…」と呼ばれている者がちらほら現れている。
 天橋立駅に到着すると荷物を預けて天の橋立を一望できるビューランドに登ることにした。しかし、展望台を登るリフトは長蛇の列ができ、頂上までは1時間ぐらいかかることになった。展望台から見える天の橋立は絶景で、お立ち台で尻を天の橋立に向けて前屈し股から覗くと、天の橋立が天に昇る龍のように見え、宮城県の松島・安芸の宮島と並ぶ日本三景の一つであることが納得できる。天の橋立を散策して宿泊予定の宮津ロイヤルホテルへ向かった。
『ゴールデンウィーク以来の人出で嬉しいですわ。普通の土日はこんな混んでませんわ。7月に京滋高速道路がこの近くまで開通したんで、シルバーウィークのおかげですわ』と地元のタクシー運転手が関西弁で話しかけてきた。
 関西弁の運転手と愉快な会話をしている間に、夕日が日本海に沈みかけ、車はホテルの正面玄関に到着した。

城の崎にて

 翌日、いろいろな名勝に立ち寄りながら城崎温泉に向かうことにした。
 まず籠(この)神社を訪れた。そこで「さざれ石」と出会った。

国歌:君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで。
 以前からさざれ石とはどういう石なのか疑問で、この旅で初めて見ることができて目からうろこであった。さざれ石とは小石が粘土・砂に混じって大きな岩(巌)となったものである。
 その後に、傘松公園を登り、天の橋立を昨日とは逆方向から眺望し、股覗きしなくても天の橋立が天に昇る龍のように見えた。次に車はさらに北上し、伊根湾に向かった。そこで遊覧船に乗って海から重要伝統的建造物群保存地区「伊根の舟屋」を見物した。家の一階は舟の収納場と資材置場、二階は住居として使用されている。こんな海岸ぎわに家を建てて、台風や高波で家が破壊されないものかと疑問だったが、伊根湾には多く小島が点在し、高波を塞いでいるらしい。そういえば東日本大震災の際、宮城県の松島で小島が多く点在していた地域は津波の被害が軽かったそうだ。
 この重要伝統的建物の保存は非常に大変なことだと思うが、ぜひ頑張ってもらいたいと願いながら車は日本海側を通って城崎温泉に向かった。
 途中、浦島太郎・乙姫伝説が残る浦嶋神社を通って、古代ロマン街道にある立岩に到着した。その浜辺には間人(はしうど)皇后と聖徳太子の母子像が立っていた。この地名を間人と呼ぶ。間人を「たいざ」と読める人はほとんどいないだろう。間人(はしうど)皇后は都で蘇我氏と物部氏との争いに巻き込まれるのを避けるため、聖徳太子と共にこの地に来た。そして、都に戻る際にこの地に名前を付けることにし、人々は「はしうど」では畏れ多いので、退座(この地を去る)されたことから「たいざ」と名付けたと言われているそうだ。関西人の中では間人蟹(たいざかに)として知られている。
 古代に夢をはせていると車はコウノトリ繁殖センターへ向かった。兵庫県ではこの地域で絶滅危惧種コウノトリを、鴇のように人工繁殖し、自然界に放鳥して自然繁殖することを試みている。
 コウノトリが巣でヒナを育てている姿を想像していると、遂に城崎温泉に到着した。

城崎温泉

 コウノトリが傷を癒していた事より発見されたという伝説もあり、717年から720年に道智上人が千日の修行を行った末に湧出したことが城崎温泉のはじまりと言われている。
 城崎温泉駅前から7つの外湯(旅館外の風呂)につながる大渓谷川沿いに木造三階建の宿がつらなる温泉街と川べりの柳が風情をふくらませる。
 旅館から貸し出された浴衣を着て下駄を履いて、夕涼みをしながら、縁日のような賑わいの中、懐かしい遊びに興じ、文人墨客の足跡を辿り、古い湯治場と風情を堪能すると、まるでタイムスリップした感じがした。
 三木屋旅館は志賀直哉が3週間滞在して小説「城の崎にて」を書いた宿屋である。

 高校生の時、受験のために読んでいた作品だ。当時は特別感動した記憶は残っていない。今日、この旅のために再び読んでみた。蜂、鼠、イモリの各々の偶然の死。最近、私も人の寿命とは一体何なのか?そろそろ何が起こってもおかしくない危険ゾーンにくる年齢なのかも。高校生の時は気にもしなかったことが、今は気になり出した。志賀直哉が問いかけた場面に立って、将来の自分の人生の終末をつい考えてしまう。そんなことを考えていると「つたや旅館」の前に立っていた。ここは桂小五郎が禁門の変で破れ必死に敗走し、各地に隠れて再起の機会を待っていた宿の一つである。彼は“逃げるが勝ち”を見事に実証した男だった。
 翌日、いろいろな思いを残しながら城崎をあとにし、出石(いずし)に向かった。出石は古事記・日本書紀にも登場する古い町で、室町時代には山名氏に制圧され、但馬の中心として繁栄した。その後、小出氏・松平氏が領主となり、1706年信州上田より仙石氏がお国替えになってこの地を治めた。その影響で信州からそば職人たちがやってきて、今では出石皿そばは有名だ。
 この小京都と呼ばれる城下町は気分を一時江戸時代に逆戻りさせてくれた。ここでも桂小五郎は一時身を隠していた。
 この町を近年有名にしたのは永楽館であろう。明治34年に開館した近畿最古の芝居小屋で、平成20年に44年の時を経て蘇り、歌舞伎などの興行を行っている。その他に出石城・酒蔵・武家屋敷・沢庵和尚が再興した宗鏡寺などの神社・仏閣等があり、数時間で回るにはもったいない町で、隠れた小京都と呼ばれる訳がよく分かる。
 この町の出身者に政治家・斉藤隆夫(1870年から1949年)がいった。戦前の日本では、ほとんどの政治家・学者・新聞・軍部が国民を戦争へと導いていった。そんな中、彼は戦争へ警鐘を鳴らし、国会で粛軍演説を行った。しかし誰も耳を貸さず、彼を誹謗した。もし、彼が今生きていたら、どんな演説を行うか聞いてみたい気がした。そんなことを想いめぐらせているうちに時は経ち、この町を去る時間となった。
 その後、明智光秀の居城だった福知山城を見学して、東京に戻ることになった。
 旅の数か月前では地図上で指すことができなかった丹後・丹波・但馬の地は、この旅が終わる頃には私の記憶に深く残っていた・・・。

江戸川区医師会・会報誌・江戸川2016年1月号に記載