江戸川区の東瑞江にある耳鼻咽喉科 浅井耳鼻咽喉科医院

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小説・紀行文

第5作 野球少年

 太陽の光がさんさんと照りつける8月の日曜日、私は公園の野球場で少年たちにノックをしていた。その公園は木々が生い茂り、蝉しぐれがその森から鳴り響いていた。その木々の下の日陰から一人の青年がこちらをじっと見つめていた。私はその男が何となく気になった。そしてよく見てみるとなんと須藤直也だった。私は思わず『直也!』と叫んだ。その後すぐに私は心の中で“いったい私は彼を何年待ち続けた事になったのだろうか”と思った。・・・・

 医師になって4年目の事である。都内の病院の耳鼻咽喉科の院長である先輩の女性医師が産休、育休のため、私は約4ヶ月間だけ彼女と交代でその病院に勤務医として働くことになった。

 そこで一人の男性と知り合った。彼は視力障害にて眼科を受診したところ、眼科から脳神経外科に回され診断は蝶形骨洞嚢胞(副鼻腔の一つの蝶形洞に膿が貯留して膨張)による視神経圧迫であった。

 脳外科の医師は耳鼻科の私に相談にきたところ、私が医師としての経験が少ないのではないかと疑い、脳外科で手術をする事にした。
 術後、彼の視力は改善しなかった。脳外科の医師は、耳鼻咽喉科での再手術を私に依頼してきた。しかし手術室での耳鼻咽喉科の手術の枠が無かったため、私は脳外科の手術の枠を借りようと思ったが、それに対しては断られた。“できるだけ早く再手術をしてほしい”と言う患者さんの希望で、私は外来で手術をする事にした。

 私は慎重に鼻内より中甲介を折って、蝶形骨洞膿胞壁に鉗子を到着させ、その壁の一部を切除し、中の膿汁を排出させた。
翌日には、患者さんの視力は改善し始めた。その後、脳外科医からは反省の言葉も聞けず、ただ“その患者さんの病室を耳鼻咽喉科に移してほしい”という注文を付けられた。患者さんも“早く退院したい”と言う希望があり、私は退院させて外来で経過観察をする事に決めた。
 通院経過観察中に、私は患者さんすなわち沼田武雄と、たまたま同区内に住んでいるという事もあって、非常に親しくなっていった。

 そして数年後のある日、彼から『先生、野球好きですか』と問われた。
『嫌いではないですよ』と私は答えた。
『実は、私は少年野球の監督をしているのですが、もし良かったら一緒に子供たちに野球を教えてみませんか』
『大学時代はサッカーをやっていたから、私が子供に野球を教えられるでしょうかね』
『大丈夫ですよ』と彼に言われるままに、私はコーチとして月に1~2回、日曜日に少年たちに野球を教えることになった。その野球チームは文京区にあり“茗荷谷ギャングスターズ”という名前であった。その部員の一人の少年に私は出会うことになった。

 直也の父親・賢一は、東京の国立大学医学部を卒業して、心臓外科医として活躍していた。母親・智子は、東京の私立大学の医学部を卒業して眼科に入局した。そして、彼女は自分の兄(賢一と同じ医学部の卒業)からの紹介で4才年上の賢一と知り合って、1年後に結婚した。そして翌年直也が生まれた。
直也が2才の時、賢一のハーバード大学への留学のため、家族3人はアメリカのボストンに5年間住むことになった。
 智子の父親は、通産省の官僚から日本を代表する電機メーカーに天下り、その当時、アメリカの支社長をしていて、妻とともにニューヨークに住んでいた。直也にとって、祖父母、両親に囲まれて人生の中で最も幸せな時だった。
彼が7才の時に家族は日本に帰国した。そして、彼が小学校3年生の時に母親は眼科医に復帰するため、研修を再開した。父親は千葉の国立病院の心臓外科部長として、単身赴任し、日曜日だけ家に戻ってきた。
 直也は平日夕方、母親が帰宅するまで一人で家で過ごしていた。学校でも途中転校生ということで、まだなかなかクラスメートとは馴染めなかった。日曜日は、両親は疲れていて、直也をどこにも連れて行ってやれなかった。そこで、母親は託児所のような感覚で、直也が唯一好きだった野球をやらせるため、茗荷谷ギャングスターズに入部させた。

 この野球部は昭和40年創立の少年軟式野球チームで、小学校5、6年生の高学年で1チーム、4年生以下の低学年で1チームが構成され、約50人位部員がいた。このようなチームは文京区に現在16チーム存在し、1つの小学校が母体となって結成される事が多かったが、我が部は、国立大学付属小学校、私立大学付属小学校、地元の公立小学校などの子供たちによる混成チームだった。そして高学年チームに監督が一人(沼田武雄)、低学チームにも監督が一人(山岸峰夫)がいた。この二人は中学時代バッテリーを組んでいて、卒業後ほとんど連絡を付け合うことが無く、その後20数年経って、各々の子供が野球をするのでこの部に入部させたところ、偶然再会することになり、子供たちが卒業しても二人はこの部に残って野球の指導を始めた。
 その他、コーチたちが私を含めて8人いた。彼等の仕事は電気屋、大工、硝子屋、パチンコ経営者、クリーニング屋、印刷屋など多種に渡っていて、本当に野球と子供が大好きな中年男たちだった。彼等は仕事のない日曜、祭日に交代で監督を補佐していた。

 須藤直也は小学校3年生の時、ギャングスターズに入部した。私は初めて彼とキャッチボールをした時、決して上手だとは思わなかった。足も遅かった。しかし、彼は野球の練習を非常に楽しくやっていた。だが直也の母親は野球に協力的ではなく、一度も練習を見にきたことはなかった。試合で地方に行く時、昼食の弁当が必要なこともあった。その時に、直也はよく弁当を忘れてくることがあった。
『僕、お腹がすかないからいいんだよ』直也は言っていた。
私は『遠慮するな、俺のを食べろ』と言って、彼に食べさせた。私は弁当が必要なときは直也の分まで持って行くことにした。そして、しばらくすると日曜日は塾のテストが優先となって、彼は月に一度位しか練習に来られなくなった。母親は直也に、常にテストの成績が偏差値60以上なら、野球の練習に行くことを許可した。
 直也は元来頭の良い子供であった。幼少時よりアメリカで生活したためか、すでに英語は流暢に話すことができた。その他の教科も成績は優秀で、母親との約束を守ることができた。そして、2学期からは練習にも再び参加できるようになり、テストは月曜日の夕方受験することを許された。しかし、直也の楽しい野球の時間はそう長くは続かなかった。

 直也が5年生になった時、塾の講師が母親に『直也君、野球をやめてもっと勉強に専念すれば、偏差値65以上も夢ではありませんよ。俗に言う御三家(麻布、武蔵、開成)も、合格の可能性が有りますよ』と告げた。母親は即座に野球を辞めさせる決意をした。
母親・智子が私の所へやってきた。『直也を5月一杯で退部させてください』
『直也は納得しているのですか?お母さん約束が違いますよ。塾のテストで偏差値60以上なら野球を続けていいって言ってましたよね』
『それはそうでしたけれども、あの子には次の目標があるのだから』
『ちょっと待ってください。彼はこの一年で野球が上手になってきていますよ』
『でも、いつも補欠じゃないですか。あの子は常に父親のように、社会のトップを歩かなければならないのです。劣等感など味あわせたくないわ』
『お母さん、退部は7月まで待ってください。6月から夏期大会の文京区の予選が始まります。直也も試合に出られるかもしれませんよ。一度でいいから彼の出場する試合を見にきてくれませんか?』『分かりました。とりあえず7月まで退部は延期しましょう。その試合を見てからまた考えます』と智子は私に告げて去って行った。

 6月の中旬より、夏期大会の第1回戦が始まった。我々はどんどん勝ち進んで、7月第3日曜日についに決勝を迎えた。残念ながら直也はまだ一度も試合に出場できてなかった。決勝の前日、私は監督に『明日、どこかで直也を出場させてほしい』と頼んだ。そして、智子に『お母さん、明日の決勝戦に直也は必ず出場しますから、ぜひ応援に来てください』と私は電話をした。
決勝当日、監督は私に何の理由も聞かず、直也を9番レフトで出場させた。レギュラーのメンバー全員が驚いていたが、一番驚いていたのは直也自身だった。試合が開始され、好ゲームが続いていた。しかし、直也は3打席3振だった。試合は7回の表まで6対5で1点敗けていた。少年野球は、7回が最終回という規定であった。7回の裏、ツーアウトまで追い込まれていた。最後の一人の打者が、直也だった。誰もがピンチヒッターを予想していたが、監督はそのまま直也をバッターボックスに向わせた。私は観客席を見回した。しかし、彼の母親の姿は結局見つからなかった。『直也!何が何も出塁しろ』と私は怒鳴った。彼もまた、必死にバッターボックスに立っていた。相手の投手が1ストライク2ボールの後に投げた球が、直也の体にあたった。彼はデッドボールで1塁に出塁した。次の打者は1番、岩田だった。相手の投手はまだ動揺して第1球目を暴投し、直也は2塁に進んだ。岩田は2球目を打ってレフト前のヒットとした。直也は必死に走ってホームに突っ込んだ。タイミングは絶対アウトだった。しかし、直也の必死のヘッドスライディングにて、捕手は落球してしまった。審判は、“アウト”のポーズから“セーフ”の判定に変えた。大歓声が起こった。その間に岩田は2塁に進んでいた。直也は顔を上げて我々の方を見た。彼は鼻血を出しながら泣いていた。おそらく痛いというよりは、嬉しくて泣いているのだろうと私は思った。2番打者の小谷がセンター前ヒットを打って、我々は勝利をおさめ都大会への出場権を得る事ができた。
試合後、監督が全員を集めて『素晴らしい試合を見せてくれてありがとう。皆、よく頑張ったね。特に直也の勇気とファイトに感動したよ。例年通り一週間後から2泊3日で合宿が始まるから、都大会に向けて頑張ろう』と言った。全員、大騒ぎになって帰って行った。一人で帰宅しようとする直也に『今日の試合の事をお母さんに報告するんだよ、絶対にね。そして一週間後の日曜日、上野駅に必ず来るんだよ。待っているからね』と言って、私は彼と別れた。
一週間後、私は上野駅のホームで直也が現れるのをずっと待っていた。列車の発車ベルが鳴り出した。私はまだ直也が来ると期待してホームに立っていた。『コーチ、早く列車に乗りましょう』と監督から言われ、私は空しい気持ちになりながら、列車に乗った。

『直也ついに来なかったですね』と私が言うと、『しょうがないですよ、他人の子供なんですから。教師の大変さがよく分かるでしょう。だからと言って、私は野球を教えるのを辞めようとは思わないよ。私は数年前にあなたから視力を改善させてもらって、本当に感謝しているんですよ。好きな野球を子供たちに教えられるんですからね』と監督は言った。
『私も監督には感謝しています。別な視力、いわば心の眼を開かせてもらったような気がしますよ。子供には人格がありプライドを持っていることを。決して親の所有物では無いことを』
『そうですよ。子供は親の言う通りに育ちませんよ。親のする通りに育つのですよ』。私は監督との会話を続けながら合宿へと向った。
その後、私は須藤直也と会うことはなかった。直也は野球を辞め勉強に没頭し、母親の希望通り名門進学校に合格したそうである。
その後、私の家族に2番目の子供として、男の子が生まれた。彼は小学校3年生の時、野球をしたいということで、茗荷谷ギャングスターズに入部した。それからの私は毎週日曜日、祝日に、息子と供に野球をすることになった。

 私の家族に小さな変化が起こった。それまでの私は、上の子供が女の子なのでつい甘く育て、下の子供は男の子なので、つい厳しく育てていたのかも知れなかった。妻から『息子が“お姉ちゃんに比べて僕はいつも厳しく叱られる”と不平を言っているわよ』と伝えられた。私はショックだった。しかし、二人で野球を始めてからは息子との距離が以前より近く感じられるようになった。
人生で自分の子供とキャッチボールができるのはおそらく数年間だけだろう。私はその数年間を大切にしたいと思った。そしてまた、息子との心のキャッチボールはその後も続けたいと、私は望んでいる。

 その年の8月に私は公園で直也と再会した。『直也、大きくなったな。キャッチボールでもしようか』と私は言いながら彼にグローブを渡した。『相変わらずへただな』と私が言うと『あれ以来、野球はしていないですよ』
『直也、あれから名門進学校に合格したんだってな。今年は大学生か』
『僕はアメリカに行くことにしたんです。出発する前に、あなたにもう一度会いたくなってね。あの決勝戦に僕を出場させてくれてありがとうございました。しかし、僕はあなたを裏切ってしまった。どうしても母が、合宿に行くことを許してはくれなかったのですよ』

 それから彼は、その後の自分自身の人生を、私にぽつりぽつりと語り始めた。『僕の中学、高校生活は惨めなもので、中学3年生頃から暴力を振るうようになって、ついに母を殴ってしまったんだ。高校1年生の時には、ついに父も殴ってしまった。家庭は崩壊し、父と母は離婚し父は家を出て行ってしまった。父は日本に帰国し、千葉の国立病院の心臓外科部長から、母校の胸部外科の助教授となった。そして数年後、関東の国立大学の胸部外科の教授となった。私は母から常に“父親のようになれ”と言われ続けられ、ついに厭になってしまった。父は人間の心臓を治すことができても、人の心を理解することができなかった。コーチ、医者以外の仕事だって、世の中に立派に役に立つものがあると思うのです』
『その通りだよ。どんな仕事だってプライドを持ってすればいいんだよ』
そこへ話を聞いていた監督の沼田が話し掛けてきた。『直也、野球は誰のおかげで勝ったか、誰のせいで敗けたか、はっきり分かるスポーツだ。今の日本人に求められているのは、自己管理、自己責任だ。君は小学校の時にそれを経験した訳だ。その後の人生は私には分からないが、少なくとも今の君になったのは、父親や母親のせいではないぞ。彼等を恨んだりしないで、新しい世界へ旅立てよ。君はまだ若い、いくらでも可能性がある。あの決勝戦の勇気とファイトを思い出せ!』直也は涙ぐみながら、『今日ここへ来て、あなた方に会えて本当に良かった』と言って去って行った。

 我々は彼を見送って、再び子供たちと練習を再開した。そして私は心の中で、「最近は“個性の時代”と言われているけれど、一人の人間ができる事など数少ない。社会に出れば、チームワークで仕事をする事が多い。野球という団体競技で、子供たちが野球を学ぶ事より、野球で何かを学んでもらえたらな」と思いながら、ノックを再開した。

2000年1月 江戸川区医師会・会報誌・江戸川207号に記載
2000年6月 東京都医師会ニュース432号に記載
2001年7月 東京都耳鼻咽喉科医会会報誌105号に記載

第47作 IT革命のその後は

私の名前は「ラジオ」である。
昭和20年8月15日、天皇陛下がお言葉を全国民に伝えた時ほど、人々は直立したり、正座したりして、私に耳をそばだてた。中には、そのお言葉を聞いて、頭を下げたり、涙を流す者もいた。
日本では大正14年3月22日にラジオ放送が開始され、その後いろいろな事を人々に知らせてきた。
太平洋戦争時、大本営の発表を放送したが、その内容は全て事実とは限らず、戦争を煽った責任を感じている。
終戦後、並木路子が歌う「りんごの唄」が私から流れると、焼け野原に彷徨う人々の心を明るくした。その他にも「NHK紅白歌合戦」や昭和27年から放送を始めた「君の名は」などの数多くの人気番組を生み出した。それら人気番組が放送される時間帯には、銭湯がガラガラになり、人々は私の前に集まって来て、静かに集中して私の声を聴き、その展開に一喜一憂したものである。アナウンサーも場面や状況を描写するために、その表現力が試された。時には声を大きくしたり、低くしたり、早口になったり、風の音や幽霊が登場する場合さえも言葉で醸し出した。聴覚が大脳を刺激し、人々は想像力を膨らませた。
私の弟分のトランジスターラジオが昭和30年頃発売されると、日本だけでなく世界中でも人気となり、ラジオを聴く人々が増えた。日本が輸出に自信を持つことができた一品だ。
しかし、人々は徐々に私の前から去り始めた。テレビの登場だ。昭和28年初めて日本でテレビ放送が開始された。当時のテレビの購入価格は高額で、人々は街頭テレビや電気屋のショーウィンドウに並べているテレビの前に群がり、放送されている番組に夢中になった。特にプロレスは人々を興奮のど壺に落とし入れた。噛み付き魔“ブラッシー”を力道山が空手チョップで倒し、押さえ込むと、テレビの前で人々は声を合わせて「ワン・ツー・スリー」と叫び、レフリーが力道山の手を高らかに挙げると、人々から拍手・喝采・万歳が起こった。中には興奮のあまり心臓麻痺を起こし、命を落とした人もいたそうだ。戦争でアメリカに散々痛めつけられた日本人にとって、アメリカ人をやっつける力道山は自信を失った心のうっぷんを晴らしてくれる英雄だった。
この頃になると衣食住が整い、「日本はもはや戦後ではない」と言われ、豊かではなかったが、大きな格差社会は生じていなかった。
当時のテレビ番組は生中継だったので、やり直しがきかないため制作側も必死だった。
昭和32年2月25日、日米新安全保障条約が再締結され、国会を条約反対のデモ隊が取り囲み、警官隊と衝突する映像が流された。また皇太子御成婚のパレードはテレビの普及を拡大させたと言われている。
昭和38年11月22日、初めての国際衛星放送で、人々の視覚に飛び込んで来た映像はアメリカ大統領・ケネディーの暗殺事件だった。その衝撃映像は多くの人々の心を釘付けにするのに充分だった。
昭和32年、大家壮一は「テレビによって一億総白痴化運動が展開される」と主張した。東京オリンピックを直前に控え、テレビは白黒からカラーへと普及し始めた。その後、岸内閣が総辞職し、池田内閣が誕生し、「所得倍増計画」が発表され、昭和39年、10月10日に開催が決まった東京オリンピックに向け、日本の生活水準が大きく向上した。
私の置かれた家はどうやら医者のようだ。居間の中央に置かれた私は、その場所をテレビに奪われた。テレビは私の居場所を奪っただけでなく、外界では最大の娯楽として隆盛を誇っていた映画界の衰退の原因を作った。そして、台所には冷蔵庫が置かれた。冷蔵庫は昭和40年頃には普及率50%を越えた。家の外には洗濯機が設置され、当時テレビ・冷蔵庫・洗濯機を“三種の神器”と呼んだ。また電気炊飯器の登場は主婦の家事の手間を減らし、料理を楽しくした。
『テレビ君、今の主役は完全に君だね』と私がテレビに声をかけると、
『ラジオ君、長い間ご苦労さま。これからは僕の時代だ』
テレビは誇らしげに言った。また、ラジオもトランジスターラジオが主流となったが、私は骨董品としてなんとか居間に置いてもらった。
日本経済は東京オリンピック後、一時不景気になったが、その後回復した。この頃、クーラーが家にやって来た。まずは居間に一台だけ取り付けられたため、家族は皆居間に集まって来た。この家の息子はどうやら医学部を目指しているようだ。まだ自分の部屋にはクーラーがなかったため、扇風機で受験勉強に励んでいた。
この頃、「長時間クーラーの部屋に入っていると“クーラー病”に罹る」と言われ、また「扇風機やクーラーをつけて寝ると体調を崩す」と実しやかに囁かれ、人々は夜スイッチを必ず消して床に就いた。それらの迷信や習慣が将来高温多湿化する日本において、高齢者の熱中症による死亡の大きな原因の一つを作ることになった。
佐藤首相は7年にも及ぶ長期政権を樹立し、海外ではケネディー大統領がフランスから引き継いだベトナム戦争が泥沼化した。メディアはアメリカ軍との行動を伴にすることを許された。同行した記者たちは次々と戦争の悲惨さを報道し始め、アメリカ政府の意図したところとは反対側に世論は動き出した。厭戦ムードが拡大し、また戦費が重なり、1971年8月15日、ついにニクソン大統領はドルの金本位制をやめた。ドルショックと呼ばれた。日本は固定相場(1ドル360円)から変動相場制に変わり、不景気となった。
60年安保闘争の頃より、体制を批判する学生運動が盛り上がり始め、昭和44年1月東大安田講堂での学生vs機動隊の攻防が一部始終テレビに放映され、多くの人がテレビの前に釘づけになった。その年の東大の入試は中止となった。その後学生運動は下火になり、セクト化し、昭和47年2月浅間山荘事件が起こった。機動隊が山荘に突入した時の視聴率は、NHK・民放各社の合計が90%近くだったそうだ。
ドルショックから立ち直った日本は、昭和45年、大阪万国博覧会を開催し、高度経済成長を迎えた。しかし、経済優先の社会の陰で、水俣病・イタイイタイ病・大気汚染による喘息・光化学スモッグ等の公害を引き起こすことに気付く人はまだ少なかった。
昭和47年、札幌冬季オリンピックが開催され、日本ジャンプ陣(笠谷・金野・青地)は“日の丸飛行隊”と呼ばれ、金・銀・銅を独占し、国旗掲揚ポールに三本の日の丸が昇っていく様子をテレビが映し出すと、多くの日本人は感動した。この家の家族も、特に息子が2月に高校受験を控えているにもかかわらず、テレビの前に釘付けになって応援していた。
その年に念願の沖縄が返還され、それを機に佐藤内閣が総辞職した。佐藤首相は辞職会見で、在任中、好き勝手に記事を書いた新聞記者たちを追い出し、テレビカメラの前に一人座り、そして、国民に自分の思いを語った。テレビを有効に使った政治家の一人であろう。一方、退陣の際に何の声明も発表しない多くの首相たちには失望する。
その後を継いだのが、田中角栄首相だった。彼は尋常高等小学校卒で、裸一貫で頑張り内閣総理大臣にまで昇り詰めた。豊臣秀吉が百姓の倅から太政大臣にまで出世したのをなぞって、当時、彼を“今太閣”と呼び、庶民の味方のようにマスコミは期待を込めて報じた。しかし、秀吉は果して百姓の味方であっただろうか?彼は刀狩りと検地を実行し、抵抗の力を削ぎ、正確な年貢の取り立てを確立した。一方、田中首相は「日本列島改造論」をぶちあげた。すると、土地の価格が上昇し、物価は高騰、そこに中東戦争(イスラエルvsアラブ諸国)が拍車を掛けた。中東の石油産油国は「イスラエルに味方する国には石油の輸出を禁止する」と発表した。何故か「店頭からトイレットペーパーや洗剤がなくなる」と噂され、人々は売り場へ雪崩れ込んだ。テレビがその状況を映し出すと、それを見ていた人々は店に走った。その時、日本の石油備蓄量は1週間分と言われていた。オイルショックというJapanese Englishの造語(正確にはOil Crisis)をメディアは作った。節電を心掛けるムードが広がり、深夜12時以降のテレビ放送は中止。ネオン等の街の証明は消された。そんな時、石油に代わるエネルギーとして原子力が注目され、多くの人は原子力発電の稼働に大きな異を唱えなかった。ロッキード事件が発覚し、田中首相が辞職した。
昭和51年、我が家の息子が医学部に入学したようだ。この頃、カセットテープデッキ付きラジオが普及していた。息子は毎日、音楽を聞いていた。彼の部屋に入るとキャンディーズの“春一番”が流れていた。スター誕生という番組で造られた「アイドル」という言葉が一般化され、井上陽水や荒井由美らの曲が「ニューミュージック」と呼ばれた。彼の部屋の壁にはアグネスラムのポスターが貼られていた。
翌年、昭和52年、王選手が756本のホームラン世界記録を更新し、巷では「JJ」という雑誌が創刊され、ハマトラ・ニュートラ・サーファー等のファッションが流行し始めたのもこの頃だ。
昭和53年、大学では解剖学実習が始まり、我家の息子も医学部生としての自覚が芽生えたように見えた。映画「サタデーナイトフィーバー」が大ヒットし、空前のディスコブームが到来。合コンやダンスパーティーも盛んになった。
昭和54年、インベーダーゲームが大流行。朝、息子は大学のある駅の改札口を出ると、左の喫茶店(ゲーム機が置いてあった)への誘惑を断ち切って、右の大学へと向かった。
昭和55年、やすきよ・ツービート・B&B等、漫才ブームが起こりテレビを賑わしていた。この頃、定着し始めたカラオケスナックで、歌詞本を見ながら流行歌・演歌・軍歌等を人前で歌うことに抵抗がなくなり、他の客も人の歌を聞くマナーをまだ持っていた。
昭和57年、ホテルニュージャパン火災・羽田沖で日航機の逆噴射事故等で世間が騒いでいた頃、彼は医師国家試験に向けて必死に勉強していたようだ。
この年に東京ディズニーランドが開園し、政界では“風見鶏”と陰口を叩かれた中曽根康弘が首相に就任した。彼は次第に強力な指導力を発揮し、国鉄・電電公社・専売公社を次々に民営化し、後にバブルと呼ばれる空前の好景気を生み出した。その頃、我家の居間では“ファミコン”と呼ばれたテレビゲームが行なわれ、テレビ君も少し戸惑っているようだ。テレビの価格もどんどん下がり、一家に1台が一家に2~3台もテレビが備え付けられ、家族団欒でテレビ番組を楽しむことは薄らいでいった。多くの人々が仮想現実を楽しむという礎をテレビゲームが作ったと言っても過言ではない。
昭和62年11月、竹下内閣が誕生し、「ふるさと創生論」をぶち上げ、全国に1億円をばら蒔いた。しかし、3%の消費税の導入を決定し、リクルート事件が発覚し、次第に窮地に追い込まれていった。
昭和64年1月7日、天皇陛下が崩御され、昭和から平成に年号が変わった。天皇即位式がテレビを通して多くの国民の目に映った。
平成2年、湾岸戦争が勃発し、アメリカ軍の攻撃がまるでテレビゲームのように映し出された。人々の視覚がこういう映像に慣れてしまったことが恐い。その映像下で多くの人々が殺生されているはずだが、その残酷さが伝わって来ないし、視聴者はまるでゲーム感覚でニュースを見ていた。アメリカ政府もベトナム戦争の報道に教訓を得て、メディアを規制し上手にコントロールした。戦争終結後、新事実が次々と明らかになった。この頃日本では政・官・民の癒着が次々と報道され、テレビでは政治討論番組が高視聴率を得て、政治家・ジャーナリスト・学者たちは続々と番組に登場し、持論を展開した。
平成5年、戦後初めて政権交代が行なわれ、非自民連立政権が誕生し、細川護煕が内閣総理大臣に就任したが、翌年佐川急便問題で辞職に追い込まれた。
平成7年1月17日、阪神淡路大震災が起こり、その被害状況が刻々とテレビに映し出された。しかし、被災地は電気が通じず、テレビが放映されず、被災者に正確な情報が伝わらなかった。そこで、電池でも動く私たち・ラジオが久しぶりに注目され、表舞台に登場した。しかし、電気の回復とともに、再びテレビにその座を奪われ、テレビが流す映像は被災者たちを恐怖と悲しみの底に突き落とした。この時、国民は悲惨な天災が起こっても対処できる防災を確立しようと思ったが、3月17日、東京で地下鉄サリン事件が起こると、テレビはその生々しい事件現場と、それを引き起こしたオウム真理教について毎日放送した。その結果、人々から阪神・淡路大震災の記憶は薄らいでいってしまった。人々に注目させるのもテレビ、その記憶を薄らげるのもテレビであることを実感した。
このテレビに強力なライバルが現れた。初めは“ポケットベル”と呼ばれる人を呼び出す小さなプラスチックの箱だった。次に短い文章なら伝言できるようになった。それならば、自宅の電話のように会話ができないかと思うようになり、ついに携帯電話が登場した。初めはショルダーバックくらいの大きさが、すぐにトランシーバーくらいのサイズになり、数年後にはバックやポケットに収納できるほどの小ささに改良された。各自、アドレスと呼ばれる数字やアルファベット文字を持ち、その宛先へメールと呼ばれる文章を送ることもできるようになった。当初、電話ができるならわざわざメールを送らなくてもと思う人が多かったが、言葉で話し合うよりは文章で通じる方が良い場合があることが後に分かるようになり、このメールが携帯電話の主流となった。
平成12年、森内閣の時、“IT(Information Technology)革命”が叫ばれ、携帯電話は猛烈な勢いで進化し、また経済も改善させ“ITバブル”と呼ばれた。もう一つ、テレビのライバルが現われた。パソコンだった。1980年代、大型コンピューターが小型化に成功し、テレビくらいの大きさになって、家庭内に入って来た。そして更に小型化し、ノートサイズのパソコンが登場し、持ち歩けるくらい便利となった。また、インターネットの普及がパソコンの使用率・普及率を高め、テレビの存在を脅かした。インターネットは携帯電話との接続が可能となり、情報検索はノートパソコン、携帯電話からが主流となった。ゲームもパソコン、携帯電話に主役を取られた。電車に乗ると約7割の人々が携帯電話を開き、メールをしているか、ゲームをしている。携帯電話の小さな画面に慣れた人々はテレビ画像を携帯電話で見ることに抵抗がない。このようなテレビを“ワンセグ”と言うらしい。
『テレビ君、君たちの体型もずいぶん変わったね』
『そうなんだよ。真空管テレビはとっくの昔に御払い箱さ。僕のような肥満体型テレビも薄型に変わってね。プラズマだの液晶だのに変わったのさ』
『その薄型テレビ君も最初は高価だったよな』
『確か100万円を越えていたよ。でも値下げ合戦になって、今じゃ数万円でも買えるものも現れてさ』
『韓国製がどんどん進出してきて、シェア率もトップらしいね』
『そうなんだよ。だからソニーもシャープもピンチなんだ』平成23年7月24日、アナログ放送が終了、地上波デジタル放送に対応した液晶・プラズマテレビにもエコポイントが付与され、平成21年5月から平成22年12月までの期間続いた。この間、テレビが売れ、テレビ製造会社は何とか息をつけるようになった。
最近、おもしろい光景を見た。居酒屋で4人組の学生がテーブルに坐った。最初の飲み物を注文した後、一斉に携帯電話を取り出し、一言も会話せず、4人全員がメールを打ち始め、そちらに集中し、壁に取り付けられたテレビには全く興味を示さなかった。彼等は一体、何のために集まったのだろうか?携帯電話依存症なのである。最近、携帯電話でゲームをやり過ぎて、借金を抱える若者もいるそうだ。
テレビ界は大変だ。皆がどんどんテレビで番組を見なくなった。しかし、平成23年3月11日、東日本大震災が起こり、押し寄せてくる津波の映像は人々を驚愕させた。また、福島の原子力発電所の崩壊映像は原子力の危険を思い知らせた。テレビの映像も次第にYou-Tube等の動画サイトに注目を奪われ、数年後、我が家のテレビはお蔵入りとなった。
『あら、テレビ君じゃないか。君もついにこの倉庫にやって来たね』
埃まみれのラジオが、がっくり肩を落したテレビに話した。
『もう僕はお払い箱のようだ。すっかりパソコン君に僕の居場所を奪われてしまってね』
テレビの顔には失望感が現われていた。
『一緒にここで余生を過そう』
ラジオが優しく声をかけた。
『・・・・・・』テレビは黙ってうなづいた。
そして、数年後、パソコンが倉庫に現われた。
『どうしたの?パソコン君』
ラジオ、テレビがほぼ同時に声を発した。
『携帯電話君とiPad君に私の全ての仕事を取られてしまった』
早すぎるパソコンの引退に一同は驚きを隠せないと同時に、携帯電話の支配に不安を感じた。しかし、残念ながらその不安は的中した。その後、数年間で、携帯電話は大きな進歩をとげた。ゲーム・音楽・通訳・数多くの情報サービス・仮想体験・金融サービス等、さまざまなものが携帯電話・iPadと繋がった。
人々は四六時中携帯電話を持ち、顔を下に向け操作をしている。人々は自由な発想を忘れ、携帯電話に支配され始めた。例えばGPS(Global Positioning System:全地球測位システム)を取り付けられた携帯電話・iPadは人の行動を監視し、営業マンがきちんと営業に回っているか、iPadを開いて客に商品の説明を一日何回したかをチェックできる。このような技術を巧みに使いこなす人にとっては非常に便利な社会になり、技術を使いこなせない人は社会から取り残された。
家の中から不必要な電化製品は消え、また人々が仕事を奪われることになり、街中は失業者で溢れている・・・。
18世紀、イギルスで起こった産業革命は、貴族から大工場を経営する資本家に社会の実権を奪わせることになり、大工場には多数の労働者が集中した。資本家たちは利益追求を第一とし、労働者たちに低賃金と長時間労働を強要した。
進歩することが常に人を幸せにするのだろうか?「革命」という言葉が気安くもてはやされているが、おしなべて革命の後に必ず良い社会が実現するのだろうか?
私・ラジオ、テレビ君、パソコン君も粗大ゴミとして処分されていてもおかしくないのだが、物を簡単に捨てられないこの家の住人のおかげで、もう少し今後の世の中を見つめられそうだ・・・。

江戸川区医師会会報誌・江戸川2013年9月号に記載

小説 第35作 秘められた再開

世の中には信じられない驚くべき話が身近にあるものです。今回の話を皆さんが信じるかどうかは皆さん次第です・・・。

秋の気配が近づき始めた頃、テレビのワイドショーが或る事件を取り上げていた。“湖に謎の全裸死体!身元はエリート医師、他殺か自殺か警察は現在捜査中・・・”

その数ヶ月前、椎名宏明は教授室に呼ばれた。
『椎名先生、悪いけどF市立病院に7月と8月だけ行ってくれるかな。あそこの精神科部長の野瀬先生のお父さんが突然倒れて、急に2~3ヶ月自分の病院を手伝うことになってね。その間2~3ヶ月位休暇をもらいたいと言っているんですよ。急に言われたんだ。あそこの病院、地方にはあるけど、うちの関連病院としては大切な病院であることは知っているよね。病院長もうちのOBだしね』と教授は少し困った顔をしながら話しかけてきた。しかし、その瞳の奥には椎名が必ず自分の申し出を受けてくれるという自信があった。
予想通り、椎名は教授の申し出を快諾した。教授室を去り、医局に着くと誰もいなかった。椎名は約8年前のことを思い出した。当時30歳前後で独身の精神科医だった彼は、F市立病院に出向していた。F市立病院は山々に囲まれ、東京から100km以上離れ、東京からの通勤は不可能で、多くの医師たちは単身赴任だった。病院の敷地の近くに5階建のマンションがあり、各部屋は2LDKで一人で暮らすには充分な広さだった。そのマンションの周囲に一戸建の家も用意され、医師たち数家族が入居していた。
その時は、2年間の勤務で、精神科医として必死に腕を磨いている最中だった。そんな中一人の女性と出会った。彼女の名前は相川梨花。彼女は市内から少し離れた町に住んでいて、地元の看護学校を卒業してF市立病院に勤務して4年目だった。
宏明と梨花は出会った時からお互いに気持ちが引かれていた。そして、同じ病棟で働くうちに愛が芽生え出した。梨花は看護寮を出てアパートを借り一人暮らしを始めた。お互いの勤務のない時はできるだけ周囲へは秘密にして、二人だけの時間を大切にした。デートは市外へ行き、夜は彼女の部屋で過ごした。しかし小さな町では秘密にしておくことが難しく、二人のデートをしばしば目撃され、徐々に病院内で噂となっていった。宏明は梨花との結婚を決意した。そして、両親に彼女を紹介することにした。両親は梨花と会うには会ったが、最初から彼女との結婚には反対だった。宏明は、両親を説得することができないまま時が過ぎていった。
そして大学に戻るように医局長から指令が来た。
『東京に戻ったら何度も両親を説得するからもう少し待っててね』
宏明は何とか事態が好転することに期待しながら梨花に話した。しかし、彼女はこの結婚が難しいのではと考えていた。彼が自分をとるか、両親をとるかのどちらかになると思っていた。彼女は宏明が自分を選んでくれるのに若干の希望を持っていた。
宏明は一人息子で、父親は東京近郊の市で精神病院を経営していた。父親の意見は絶大で、宏明は常に父親の意見に逆らえなかった。両親は息子にはそれなりの家柄のお嬢さんを嫁として迎えたいと思っていた。宏明が東京に戻ってくると、両親は次々とお見合いの話を持ってきた。そして彼はついに、その中の女性の一人である有希奈と付き合うようになった。彼は次第に梨花のことを忘れ始めていた。東京に戻ってから5ヶ月位経った頃、梨花から手紙が来た。その手紙の中で、新しい恋人ができたこと、その男性と結婚を前提として付き合っていること、今後二人は別々の人生を歩いたほうが良いと書いてあった。宏明はその手紙の内容が別れを意味していることをすぐに理解した。初めは梨花への思いが強かったが、時間と有希奈がそれを打ち消した。
そして、宏明は有希奈と結婚した。周りから祝福された結婚式だった。その後、宏明と有希奈との間には二人の子供が生まれた。しかし、宏明の記憶の中には、梨花との甘い生活や結婚したら・・・という気持ちを完全に消滅することはできなかった。

教授からF市立病院への出向と命じられた時、数ヶ月とはいえ、梨花との再会があるかもしれないという淡い期待と、今さら会ってどうするのかという自責の念を感じていた。F市立病院赴任前日に、彼は単身赴任用の2LDKのマンションに引っ越した。8年前とほとんど変わっていなかった。東京から持ってきたものはBMWだけで、後は現地で調達することにした。街を歩いてみると、地方都市は東京の5分の1位のスピードで変化しているようだった。東京の変化が速すぎるのかもしれないと思い直した。
F市立病院は中心部より離れたところに立地していて、広大な敷地だった。多くの患者さんと見舞い客はほとんど自家用車で来院するため、広い駐車場を必要とした。その敷地の中で精神科は一般病棟よりやや離れた所にあった。
宏明は医局での挨拶が済むと、病棟へ向かった。8年前のスタッフの数人の顔は浮かんできたが、ほとんどの名前も思い出さなかった。婦長、主任の名前さえ記憶に残っていなかった。頭の中にあったのは相川梨花と数人の名前だけだった。
病棟での自己紹介が始まった。予想通り全て知らない顔だった。
宏明はがっかりした反面、ほっとした気持ちになった。8年前の梨花との交際の件を知っている者など誰もいなかった。しかし、彼は彼女に会いたかった。宏明は休憩時間になると看護師たちと昔話を意図的に話すようにした。
しかし、相川梨花のことを知っている看護師は一人もいないことが分かった。数ヶ月で東京に戻ることになるのだからと、宏明は仕事に集中しようと思い始めた。
赴任して2週間位経った頃、彼は当直を担当していた。看護師たちから入院患者さんの状況を聞いて、当直のベッドで仮眠を取ろうとしていた。
数時間経った頃“コンコン”とノックの音がした。
『先生』と看護師の呼びかける声がした。
宏明はいつも当直の時は深く眠れず、浅い睡眠だったので、すぐに目を覚まし、『どうぞ』と返事をした。
宏明の前に現れたのは、相川梨花だった。宏明は驚きの余り絶句した。そして次の瞬間『梨花、梨花じゃないか』と叫んだ。
彼女は右手の人差し指1本を口元に立てて、左手で宏明の口を押さえて話しかけてきた。
『先生、お静かに、何が起こったんだと皆が思って入って来るわ。先生本当にお久しぶりね』
梨花は8年前と全く変わっていなかった。宏明は少し冷静を取り戻し、話し出した。
『また、この病棟に戻ってきたよ。でも数ヶ月だけ、野瀬先生のピンチヒッターなんだ・・・。君を探したよ。今何処にいるの』
『中材にいるのよ』
『中材って』と宏明は問い直した。
『中央材料室、ほらオペ室の手術器具等を管理する仕事よ』
『精神科医の僕にはあまり関係ないところだね。だから、いくら探しても君を見つけられなかったんだな。てっきり辞めたと思っていたよ』
『私も先生がまた戻ってくるとはびっくりしたわ』
『会えて嬉しいよ』と宏明はしみじみと話した。そして、彼は静かに梨花に質問した。
『誰かと結婚した?』
『先生と別れて、1年後に地元の運送会社の人と一緒になったの。俗に言うトラック野郎よ』
『幸せかい?』と宏明が問うと、
『・・・・・』彼女は何も答えなかった。
『野暮なことを聞いたね』
『別に・・・・まあまあ幸せかな。共稼ぎで、仕事で帰って来ない日も結構あってね。今度先生のマンションに行っていい?』
『いいよ。304号室だからね』
『そろそろ、行くね。看護師たちに怪しまれるから。それとね、病院内で私を探したり、会いに来たりしないでね。小さな町だし、大病院と言っても小さな社会だから、すぐ面白おかしく変な噂をたてられるからね。先生も私も傷つくだけだから・・・』と言って梨花は当直室を去っていった。
それから数日後、梨花が304号室を訪れた。宏明にとって、待ちかねた日だった。
8年前に比べ、宏明はやや太り、腹も飛び出し、白髪も少しまじり、そろそろ中年に入ろうとしている体型だった。一方梨花は色白で、素敵なプロポーションを保ち、8年経過したとは全く思わせないほどの美貌だった。二人は直ぐに8年前と同じように一つの布団の中で体を重ね合わせた。
宏明の頭の中から完全に家族のことが消失した。数時間経って、梨花が自宅へ戻る仕度を始めた。
『今日は泊まっていけないの』と宏明が引き止めた。
『駄目よ、朝帰ると誰かに見つかるかもしれないでしょ。それより、次から先生が私の家に来ない。亭主は仕事で週に2、3日は帰って来ないのよね…。今日は私を家まで送ってくれる?』
『いいよ』
二人はそっと304号室を出た。周囲を気にしながら、二人はBMWに乗り込んだ。BMWは梨花の家に向かって出発した。彼女の家は市中から少し離れた所にあった。周囲は民家はなく木々に囲まれていた。中に入ると、8年前に二人で生活した部屋に似ているような感じがした。宏明には初めて入った部屋ではないようだった。彼は20~30分位、部屋で過ごした後、自分のマンションに戻った。
それから1週間に2回位、梨花から電話があり、夜9時頃彼女の家に向かった。宏明の行動は次第にマンションの別の住人からも注目されるようになった。特に、精神科の後輩である滝村は宏明の行動に不信を抱くようになった。そして、同僚の矢崎と相談した。
『矢崎、どう思う?夜中に何処に出かけるんだろう。こんな田舎町に行く場所なんてあるかい?』と滝村は問いかけた。
『実におもしろい。きっと何かあるよ。どうだろう。二人で椎名先生の後を追ってみようか』矢崎は興味を示した。
『そんな悪趣味なことできるかよ』
その好奇心に冷水をかけるように滝村は言った。
『だったら何故俺に話したんだよ。お前だって椎名先生の秘密を見てみたいんじゃないのか・・・』
すると今度は憤慨した表情で矢崎は反撃した。
結局二人は椎名の後を追うことにした。
そして、その日がやってきた。夜9時を過ぎた頃、二人を乗せたVOLVOはBMWをそっと追跡し始めた。宏明は全く追跡に気付かず、いつものように梨花の家の前に到着し、車を降りた。二人は宏明が入っていた所に疑問を抱いた。市中から離れた小さな神社だった。夜は無人で、周囲は木々が繁り、水子供養、安産祈願等の旗が数本立っていた。宏明はその境内で独り言を言っていた。約1時間位経って、彼はBMWに戻りエンジンをかけ、マンションに向かった。
滝村と矢崎は我が目を疑った。
その後、彼等は密かに宏明の精神分析を始めた。しかし、宏明には勤務中何も問題が見受けられなかった。

宏明は7月に赴任し、9月上旬に医局長から連絡があった。
『9月いっぱいで大学に戻ってくるように』
 彼は家族を思い出した。
 宏明が大学に戻るという噂はあっという間に看護師たちに拡がった。
 大学に戻る1週間前、梨花から連絡があった。彼はこのことを彼女に告げ、今日で会うのは最後にしようと思った。その日はなぜか梨花のほうから宏明のマンションに現れた。
『先生、今日が最後のデートなんでしょ』
『・・・・・・』宏明は何も答えられなかった。
『いいのよ。先生・・・今日は夜のドライブを楽しみましょうよ』
『何処に行く・・・?』
『8年前、二人でよく行った湖はどう?』
宏明は同意し、二人はマンションを出ていった。今夜梨花は自分のワゴン車で来ていた。中にはキャンプセットが入っていた。
『私の亭主の趣味は釣りなのよね。車の中にゴムボートも入っているから、あとで二人で湖の奥まで漕いで行ってみましょう』
宏明は今度も完全に彼女のペースにはまっていた。湖畔に到着すると、二人は車からゴムボートを取り出し、湖の奥へと漕いでいった。夏休み後の9月の平日の夜に、田舎の湖畔に観光客など一人もいなかった。
『ここまで来たら、誰にも見られないわ。今日が最後でしょう。素敵な夜にしましょう』
『・・・・・』宏明は無言だった。
周りは全く音がしなく、静かな夜だった。梨花の話し声だけが聞こえてきた。
『さあ・・・・速く脱いで』
梨花は宏明の服をはぎとった。そして、自分もすぐに全裸になり、彼の上に覆いかぶさった。ボートは不安定になっていた。
 彼女は宏明の耳元でささやいた。
『8年前と同じね。あなたは自分の都合ばかり。あの時と同じように、私を紙くずのようにゴミ箱にポイッと捨てて去って行くつもりなの。今度はそうはいかないわよ・・・・』
 その時である。ボートが反転し、転覆した。宏明は必死にもがきながらも、やっと水面に顔を出し呼吸できた。周囲を見回すと、梨花の姿は見えなかった。そして、彼は何とか岸へ向かって泳ぎ出そうとした時、足に水草が絡まったような気がした。次の瞬間、その水草が彼の両足に絡みつき、そして水面下に彼の体を引きずり込んだ。宏明はもがいて、脱出しようと試みたが、結局彼の姿は二度と水面上には現れなかった。
 3日後の週末に、観光客によって宏明の水死体が発見された。
 その前日には矢崎から連絡を受けた家族から警察に捜索願いが出されていたので、警察もすぐにその死体に反応した。検死の結果、単なる溺死と判明し、外傷も毒物反応も認められなかった。
 身元が医師であることが判ると、ワイドショーが飛びついた。
“湖に謎の全裸死体!身元はエリート医師、他殺か自殺か警察は現在捜査中・・・”
数週間後、予定通り精神科部長の野瀬が病院に復帰した。
『お父さんの具合はいかがでしょうか』
看護師長が野瀬の復帰を歓迎する意を含めて話しかけてきた。
『おかげさまで、皆に大変迷惑をかけたね。そうそう、僕の代わりに大学からやってきた椎名先生にいったい何が起こったんだろうね。8年前も僕が大学から赴任してきたのと交代に彼が大学に戻ったんだよ。結局彼と一度も一緒に働けなかったな・・・』
『椎名先生、精神科医としては素晴らしい先生でしたけど、謎の多い先生でしたよ』
矢崎が応えた。
『そうなんですよ。椎名先生、夜になると一人で出かけることが多くてね・・・。』
滝村が話に加わった。しかし、後をつけたことはさすがに言えなかった。
『椎名先生が亡くなった湖、確か7~8年前かな、この病棟で勤務していた看護師が自殺した湖なんだよ。看護師長は覚えていますか・・・?』
『さぁ・・・。先生、その頃私は眼科病棟に勤務していましたから、でも看護師が自殺したという話を聞いたことがあります』
看護師長は思い出したかのように、曖昧に答えた。
『確か相川梨花と言ったかな・・・。後で判ったことなんだけど、おなかの中に赤ちゃんがいたらしいよ・・・。なんでもその父親は椎名先生じゃないかという噂がたったような気がするよ・・・・』
滝村と矢崎の脳裏には同時に、あの夜の神社の光景が鮮明に思い出され、背筋が寒く感じられ、お互いの顔を見合った。
警察は当初、他殺の線で捜査を開始したが、外傷や薬物反応が全く認められず、恨みを買うような人間関係のもつれなども見つからなかった。そして、自殺の可能性もあると考えた。しかし、家族関係も円満、患者さんとのトラブルや医療・研究で特に悩んでいた形跡もなかった。遺書も見つからなかった。
では何故、裸体だったのか?どうやって湖に入水したのか?解明できなかった。しかし結局、事故として処理され、捜査本部は縮小していった。
当初騒ぎたてたマスコミも興味深いスキャンダルに発展しそうにないので、次第に報道しなくなった。
数ヶ月後、病棟では、たった3ヶ月の勤務だった椎名宏明のことなど忘れられていた・・・。

江戸川区医師会・会報誌・江戸川2006年7月号

小説 第38作 辻占の行方

城址公園の桜は、いよいよ満開の時を迎えた。夜桜見物の客や宴会を楽しんでいる人々で公園は今夜も込み合っていた。その客を目当てに多くの夜店が並んでいた。
 そぞろ歩く人々の中に中学校1年生の友嗣と小学校5年生の淳平の兄弟の姿があった。彼等は夜桜というよりは夜店に興味があるのが当然で、あちこちの店をひやかしながら歩いていた。彼等は一通り見た後、人込みの少ない路地に入った。
 その時である。突然後ろから声をかけられた。
 『そこの若いお二人さん』
 友嗣と淳平は振り返った。老人の占い師だった。小さな机とその上には小さな行灯が置いてあり、人相・手相と書いてあった。茶色の着物と帽子を身につけた老人はいかにも怪しげだった。
 『先程から見ておったんだが、おぬしたち二人は将来大物になるものと感じとった。どうだい、人相と手相をわしにもっとじっくりと見せてはもらえないかね・・・』
 淳平は少し興味を示した。
 その表情を見逃さなかった老人は『料金はもちろん無料だよ』とすかさず声をかけた。そして、淳平を小さな椅子に座らせようとした。友嗣は彼の腕をつかんで、その場を去ろうとしたが、逆に淳平に引っ張られて、その占い師の所へ一緒に連れていかれた。淳平は催眠術にかかったようにその椅子に座ってしまった。老人はしみじみと淳平の人相をながめた。
 『二人は兄弟かね?』まず、老人は問いかけた。
 淳平は無言で頷いた。すると、
 『じゃあ、おぬしを弟君と呼ぼう・・・。』
 少し沈黙が続いた後、再び老人が口を開いた。
 『弟君は将来何になりたいかね?そのことを頭の中に念じて、わしの顔を見なさい』
 淳平は将来の夢を頭の中に思い描いた。
 『おぬしは、この城下町を出なければ必ず夢が叶う。将来の夢は必ず叶うよ』
 『本当ですか?』淳平は思わず声を発した。
 『絶対にこの町を出ては駄目だよ・・・』
 淳平は頷いた。
 『さあ、お兄ちゃんの人相を見よう。弟君に代わって、この椅子に座りなさい』
 友嗣はその占い師を怪しげには思いながらも結局は座ってしまった。
 老人はじっくりと友嗣を見つめた。
 『おぬしの将来は、この町を出て都会へ行って大成功を収めるよ。しかし、・・・』
 老人は沈黙した。
 『しかし、何だよ・・・。その先を教えろよ』
 『その先は無料というわけにはいかないな・・・。実に興味深い結末だからね』
 『何だよ、この爺!やっぱり金目当てじゃないか』友嗣は椅子を蹴飛ばし、淳平の腕を引いて去って行った。

友嗣と淳平は、兄弟とはいえ全く血のつながりは無かった。
二人の父・設楽義嗣は若い頃東京の大学病院で内科を専攻していた。彼は同じ医局に入局した4歳年下の晴江と恋に落ちた。そして結婚した。結婚2年目で晴江は身ごもった。彼女はまだ内科を研修したかったが、義嗣の強い希望に従って、家庭に入り子育てに専念するようになった。翌年、父の正嗣が急に体調を崩し、他界した。義嗣にとっても予想していなかった状況になった。彼は実家の醫院を継がなければならなくなったのだ。一方、晴江は不満だった。彼女にとって田舎の生活は全く想定していなかったからだ。
 義嗣には5歳年上の兄・輝嗣がいた。しかし、父と兄は以前より折り合いが悪く、兄は既に東京で開業してしまった。
 『ちょっと待ってよ、義嗣さん。兄さん、輝嗣さんがいるじゃない』
 晴江は不満げな表情を満面に浮かべていた。
 『無理だよ、兄貴は東京で開業したばかりじゃないか。きっとまだ借金も残っている筈さ』
 『詐欺だわ。あなた、私と結婚する前に何て言っていたか忘れたの・・・』
 『・・・・』義嗣は沈黙した。
 『“実家は兄が継ぐと思うから、将来僕たちはこのまま東京で生活しよう”って言ったわよね。あれは嘘だったの?』
 『だました訳じゃないよ。当時と今は状況が変わったのさ』
 『そんなの、あなたの家の問題じゃないの・・・』
 『そこを何とか理解してくれよ・・・』
 義嗣は何度も晴江を説得した。その後彼女は渋々、義嗣の申し出を受け入れた。
 城下町での生活は、都会育ちの晴江にとって退屈な毎日だった。そこで彼女は夫・義嗣の外来を手伝うようになった。しかし、父の代から務めている看護婦たちと次第にぶつかるようになった。そんな時、県立病院の外来を手伝う話が舞い込んできた。
 義嗣は初めは反対した。
 『友嗣の面倒は一体誰が見るつもりなのか?』
 『大丈夫よ、家事と仕事を両立させてみせるわよ』
 『無理だと思うな。今だって友嗣の面倒を和子さんに手伝ってもらっているじゃないか。いいか、彼女は看護婦であって、家政婦じゃないぞ・・・』
 『そんな事は、分かっているわよ。でも、一体誰が女性は家事と子育てって決めたの?』
 『・・・・』義嗣は沈黙した。

 有村和子は6ヶ月前から設楽醫院に住み込んで働いていた看護婦であった。彼女には淳平という2歳の子供がいた。1年前に夫が交通事故で他界し、1歳の子供を育てながら働ける医療機関を探していた。設楽醫院は、終戦後没落したとはいえ、名家でもあり、何代も続いた醫院なので拡大なる敷地を有していた。そして、病院経営をせず、有床診療所を営んでいた。住み込み可能で、子供がいてもかまわないとう条件で彼女は就職した。彼女は気立てもよく、先輩看護婦たちに可愛がられていた。そんな彼女に晴江は目を付けた。晴江は友嗣の面倒を殆ど和子に押しつけて、彼女は病院勤務の時間を増やしていった。彼女の身なり、立ち振舞いも派手になってきた。義嗣は晴江の華麗な姿には以前から好きだった。しかし、東京では目立たない晴江の格好は、城下町では中傷の的とされた。晴江は次第に孤立していった。そんな時、手をさしのべたのは義嗣ではなく、同じ内科で勤務する医師だった。晴江は学会といって週末に外泊する事が多くなった。そして、夫・義嗣はついに晴江の背信行ために直面してしまった。その頃、5歳になった友嗣は和子にすっかりなついていた。幼い心には自分の母親は和子であって欲しいと描いていた。和子も実子の淳平と友嗣を分け隔てることなく兄弟同然に育てていた。そんな時、晴江は学会に行くと言って家を出たが、ついに戻って来なかった。
 数日後、晴江より手紙が送られてきた。今までのいきさつ、子供・友嗣への親権放棄等が書かれていた。また離婚への不満や慰謝料等の請求に対しては、彼女の兄である弁護士の名前と住所を明記していた。そして、彼女の署名と捺印済みの離婚届が同封されていた。
 義嗣はその手紙を読み終えて怒りをあらわにした。
 そして、手紙をすぐに破り捨てた。しかし、離婚届は完全な状態で残し、すぐに署名、捺印して役所に提出した。
 『お母さんは、お父さんとお前を残して、この家を出て行ってしまった。もう二度とこの家には戻らないよ』
 彼は友嗣を慰めるように言った。しかし、友嗣は特に悲しむ態度を見せなかった。彼の心の中では母親は既に和子であった。
 義嗣、和子、友嗣、淳平の家族同然の奇妙な関係が続いた。
 次第に“和子が晴江を追い出し、その後釜にちゃっかり座り込んだ”という噂が広まっていた。
 和子は耐えられなくなり、淳平を連れて一時実家に戻ろうとした。その彼女の心を変えさせたのが友嗣であった。和子が簡単な身の回りの物を鞄に詰め込んで、部屋を出ようとした時、友嗣は必死に和子の足にしがみついた。
 『友ちゃん、駄目よ。私はあなたのお母さんじゃないの。さあ、早く私から離れて!』
 友嗣は絶対に離れようとしなかった。
 そんな騒動に気付いた義嗣が駆けつけた。そして、彼女を抱きしめた。
 『僕は君を愛している。僕にも友嗣にも君が絶対に必要だ!そんな誹謗・中傷からも君を守ってみせる。そして、君を絶対に幸せにする・・・』
 『・・・』和子は無言だった。彼女の目から大粒の涙が流れ落ちた。

 義嗣と和子は結婚し、友嗣と淳平は兄弟となった。血はつながっていなかったが仲が良かった。友嗣は元来持って生まれた能力が高く、学業もスポーツもあまり努力しなくても人より秀でていた。一方、淳平は地道に努力する性格で、華やかに活躍するタイプではなかった。淳平にとって友嗣は憧れの存在だった。また、友嗣も淳平の性格を認めていた。一家は周囲からやっと理解され祝福もされるようになり、幸せな生活が続いた。しかし、時が経つにつれ、友嗣は変わり始めた。生活態度が派手になっていた。なんなく一番になってしまう友嗣は、田舎の生活には物足りず、厭き厭きし始めていた。そして、刺激と自分の力をもっと発揮できそうな都会での生活に憧れていた。
 『淳平から聞いたんだけど、友ちゃん、将来東京の大学を受験したいみたいね』
 和子は義嗣に告げた。
 『最近、友嗣の生活態度は変だぞ』
 『そうかな、今ごろの中学生はあんなものよ』
 『いや、あいつの体には晴江の血が半分流れているからな。立ち振舞いが段々晴江に似てきている』
 『あなた考えすぎよ』和子はそう言いながらも一抹の不安を抱いた。

数日後、友嗣はついに自分の思いを父親に告げた。
 『お父さん、僕は東京の医学部へ行きたいんだ』
 『じゃあ、しっかり勉強しろよ』
 『東京の医学部へ行くためには、こんな田舎で勉強していちゃ駄目だ。高校から東京の進学校に行かなくちゃ』
 『それで・・・?』
 『だから、輝嗣伯父さんの所に下宿して、東京の受験校に進学したいんだ』
 『そうか、お前がそこまで考えているなら、私は反対しないさ・・・』

 そして、友嗣は東京の進学校に合格した。3年後、東京の医学部に合格すると、伯父・輝嗣の家からも出てマンションを借りて生活し始めた。
 彼の生活は次第に実母・晴江に似て来て、派手になっていった。多大な生活費を父親に請求したが、父親は厳しかった。しかし、その不足分を和子が義嗣に内緒で送金していたのだった。
 友嗣の交友関係は医学部の学生に止まらず、他学部の学生や青年実業家・モデル等の芸能人までにも及んでいた。
 6年後、彼は医学部を卒業し、無事に医師国家試験に合格した。レジデント終了後内科を専攻した。しかし、5年で退職し、東京で内科を開業した。そして、1年後には医療法人を立ち上げ、同じフロアーに眼科・耳鼻咽喉科・整形外科・皮膚科・歯科・人口透析等を誘致した。そして、友人に薬局を運営させていた。バブルが弾け、東京にはあちこちに空室で悩むビルや担保として差し押さえられていたビルが続出していた。それらのビルを好条件で買い叩いて購入していった。学生時代に築いた人脈が役に立ち始めていた。多くのブレーンが集まり始めた。医者や看護師を集める役目、物件を探す役目、運営資金を調達する役目、その他いろいろな役目が分担され、莫大な借金を抱えながらも、機能し始めた。そして、徐々に友嗣は白衣を着て患者さんを診察する時間が無くなっていた。
 その頃、弟の淳平は地元の国立大学を卒業し、内科を専攻していた。そして、地元の女性と結婚することになった。結婚前日、久しぶりに帰郷した友嗣と淳平は数年ぶりに再会した。
 『淳平、結婚おめでとう』
 『兄さんこそ、東京で大成功を収めているようで』
 『お前もいつまでもこんな田舎に閉じこもっていないで、東京に出て来いよ。どうだね、俺のグループに加わらないか?』
 『僕はいいよ。それより設楽醫院の8代目院長はどうするの?』
 『その件は、お前に任せるよ。俺は確かにおやじの跡を継げば借金もないし、患者さんもついているから楽だと思うよ。でも、それで良いのか?一度しかない人生、決められた線路の上を歩くだけで良いのか。俺にはまだまだやりたいことがいっぱい残されているんだよ・・・』
 『わしはまだ現役で頑張るつもりだ。わしの跡継ぎの事など大きなお世話だ』
 父の義嗣が二人の会話に割込んでいた。そして、有頂天になっているように見られた友嗣に父親として苦言を呈した。
 『友嗣、お前は一体医者なのか?利益を追求する資本主義者なのか?』
『お父さん、なぜ医者が稼いじゃ悪いんですか?』
『お前もまだ先生と呼ばれている以上は、患者さんに真剣に向き合えよ。は医師に自分の健康を委ねているんだぞ。経営に自分の労力の多くを注いで、診療が疎かになっちゃ駄目だぞ』
 『そんなこと言われなくたって分かっていますよ。でも何故多くのクリニックを開設して、他の医者に患者さんを診察してもらうことが悪いことなんですか?患者さんにとってもメリットがあるんですよ。何故、お父さんには理解してもらえないんですか?』
『いろいろな医者の考え方があって良いと思う。でも古いと言われるかもしれないが、わしは患者さんの診療が一番、営利が第一目的ではないさ。それが日本の医者の原点であってほしいと願っているよ』
『お父さんは設楽醫院の跡を継いだだけだから、患者さんは付いているし、借金もない。だからそんな綺麗事が言えるんだ。医療だって競争なんだよ。どんな医者を選ぼうとそれは患者さんの自由じゃないですか。医者はこうあるべきだと誰が一体決めたんだ!』
『今の日本の医療保険制度は普通の医療を続けていれば、医者はそこそこの生活ができるんだよ』
『そんな日銭稼ぎで終わりたくない!』
 友嗣は父親に激しく逆らった。
 『開業医は他の先生と協力して、地域活動に奉仕することだって必要なんだ』
 『馬鹿馬鹿しい』と友嗣が発すると、
 その言葉を聞いた父親の義嗣は、落胆の表情を隠せなかった。
 『金にならないことはお前にとって、馬鹿馬鹿しいことなのか』
 『当然ですよ』
『お前は巨額な資産をきっと築くだろう・・・。しかし、お前には医者として品格が全く無くなってしまった』
義嗣は息子の姿をしみじみ見ながら呟いた。
『何だって・・・』友嗣はその言葉に過剰に反応し、怒りをあらわにした。
 『二人ともやめてよ。明日は淳平の結婚式よ。親子喧嘩なんて冗談じゃないわ』
 和子が二人の口論に割って入り、一時休戦となった。

 淳平の結婚式は東京でパーティー慣れした友嗣にとって全く田舎くさく思えた。式終了後、友嗣は一目散に東京に戻って行った。
 その後、友嗣たちは医療以外にも事業を拡大していた。インターネット会社を設立し、ネットによる医院・病院のホームページ作成、広告、宣伝、また、患者さんからの疑問・質問を答えるコーナー、そして医師の就職斡旋・お見合い、開業物件の紹介・仲介、開業資金の貸付け、有名病院紹介や名医紹介等であった。この事業が当たり、数年後新興市場に株式を公開することができた。そして、市場から吸収した資金で次々と新しいビジネスを展開した。医者向けのマンション販売、医療ビル・老人ホームの建設、人材派遣会社・病院・介護企業・ジェネリック薬品会社の買収等であった。
 友嗣はグループ企業の代表取締役に就任していた。彼はもう患者さんを診察することはなかった。
 しかし、友嗣の有頂天は長くは続かなかった。まず優秀な人材は退職し、新たな会社を立ち上げ、友嗣のライバルとなった。また短期間でいろいろな事業を展開しすぎたのか、中には赤字事業も数多く存在した。周囲の取り巻きたちはその事業を正確に報告しなかった。仮に報告しても、『数年後には必ず黒字になる』と根拠無き楽観論が占めていた。
 日銀がゼロ金利を解禁し、徐々に利息が跳ね上がっていった。資金繰りが苦しくなっていた。財務担当役員は決算を粉飾し、友嗣に報告した。また重役の中には会社の機密を売って私腹を肥やしたり、経理部長は不渡り手形を乱発し失踪するような事件も続発した。友嗣が気付いた時には、手のつけられない状態に追い込まれていた。あれだけいた取り巻き連中はあっという間にいなくなった。
 債権者たちの厳しく過酷な取立てが始まった。毎日資金繰りに奔走したが、ついに破産に追い込まれた。
 債権者集会には友嗣のブレーンと自称していた連中は誰一人顔を出さなかった。彼等は我先にと退職していった。
 野次と罵声の中、事情説明とこれから再生計画が発表された。
 誰も耳を傾ける者はいなかった。
 『貸したものを返せ!』というお決まりの怒号だけだった。
 そんな光景を目にしながら、友嗣は高校時代に読んだ太平記を思い出した。鎌倉幕府を倒すために立ち上がった三人の武将、新田義貞・足利尊氏・楠木正成。源氏の家系だが、野心だらけの新田には、最初人は集まるが人望が無いために人々は去って行った。人望の厚い楠木、しかし、全く野心がなかったため、求心力を失っていった。結局源氏の流れをくむ名門の御曹司、人望も野心もそこそこ持ち合わせていた足利尊氏が倒幕に成功した。
 『結局、俺は新田義貞だったのかな・・・』
 友嗣はつぶやいた。そして取り巻き連中のことを思い浮かべた。
 『絶好調の時は声をかけなくとも人は集まってくる。しかし俺は誰が味方で、誰が敵なのか見抜けなかった・・・』

 数年後、破産手続き・会社の整理が全て終了した後、友嗣の足は何故か生まれ育った城下町へと向かっていた。
 年老いた両親と淳平がやさしく迎えてくれた。
 『淳平は助教授になったんだって』
 友嗣は祝うように話しかけた。
 『兄さんに比べればたいしたことはないよ・・・』
 『いや、お前には地道に努力できる才能があるさ。ところで、昔、夜桜見物で出会った占い師を覚えているかい?』
 友嗣はどうしてもこの話題をしたかった。
 『もちろん覚えているよ。あの老人は占い師じゃない、ペテン師だよ。あの占い、僕には分かっていたんだ。嘘だとね。でもあの老人は僕に希望と勇気をくれたんだ。何をやっても、兄さんのようにできない僕に、コツコツ真面目にやっていれば、きっと夢が叶うと。あの時、あの老人に“将来の夢を頭の中に浮かべてごらん”と言われた時、僕は医者になることを頭に浮かべたんだよ』
 淳平はつい最近、占い師と出会ったように答えた。
 『あの占い師は本物だったよ。俺はあの時、お前と別れて、また、あの老人の所に行ったんだ。そして、お金を払ってその後の人生を聞いたんだよ』
 『何て言ってたの?』
 『“都会で一度は大成功を収めるけれど、その後おぬしは破産する。何故か分かるか?おぬしには事業を成功させても、それを維持するだけの力量が無い。それに、せっかく持って生まれた品格を汚す相がある”だとよ』
 友嗣は笑いながら涙を流した。
 『友嗣、お前はこれで終わった訳じゃないぞ。わしもそろそろ引退しようと思っているんだ・・・。後を継いでくれないか?』
 父・義嗣は息子の友嗣の肩に手を廻しながらやさしく話しかけた。
 『・・・』友嗣は無言だった。しかし、涙を流しながら、頭を縦に振った。

 数年後、友嗣は派手さも気負いもなくなり、設楽醫院の品格を持った8代目院長を務めていた。

江戸川区医師会・会報誌・江戸川2007年3月号に記載

小説 第43作 追憶

『ああ、腹がへったな』
台所で夕食の支度をしていた景子にその声が届いた。彼女は思わず元夫の悟の声かと思い、ハッとした。最近、息子の徹也の声や仕草が悟に似てきた事に、景子には複雑な思いが生じている。
『徹ちゃん、明日の試合、お母さん応援に行ってもいい?』
『駄目だよ』
『どうして?』
『格好悪いだろう』
『徹ちゃんが入部した小学校4年生の時は、あんなに応援に行ったじゃないの』
『俺はもう中学生だぜ』
息子が徐々に親から離れようとするのに、景子は少し寂しさを感じていた。彼は近頃野球のことも学校のことさえ、あまり話そうとはしなかった。小学生の時には、あんなにじゃれあっていた母子が、今では少しずつ心の距離が広がっているような気がした。景子は少し後悔していた。もっと徹也が小学生の時に、野球の応援に行けばよかったと。

香山景子と川嶋悟は医学部の同級生だった。景子はスキー部に、悟は野球部に所属した。香山と川嶋は出席番号が近かったせいか、実験・実習も同じグループになることが多く、二人は次第に恋に落ちた。
悟は高校時代まで野球をしていたので、大学の野球部に入部すると、すぐにサブエースとして、1年生の頃から、時々試合に出場できた。
2年生になると更にエースとして活躍した。景子はスキー部だったため、春から秋にかけて公式戦がないので、野球部のマネージャーを兼務することにした。悟の剛速球は唸り、彼が登板する場合の勝率は9割を超えていた。二人は共に勉強やクラブ活動に励み、充実した医学部の学生生活を過ごした。卒業後、悟は耳鼻咽喉科へ、景子は眼科へ入局した。研修医の間、すれ違いの時期もあったが、二人の愛は硬く、崩れることなく、卒業後3年目に二人は結婚した。
結婚後、2年目で長男・徹也が生まれた。この出産を機会に景子は一時眼科医を休職し、子育てに専念した。
徹也が5才の頃、それまで順調に歩んできた二人の関係を揺るがす事件が起きた。その頃、悟はオーベン(指導医)になっていた。彼の下についたネーベン(研修医)・深巻藍は、体力・気力も充実し、前向きに医師としての仕事に取り組む悟に、尊敬と好意を抱いた。その好意は次第に愛に変わっていた。1日の殆どを大学病院で働く悟は、景子といるより、はるかに藍と長く過ごすことになった。藍は積極的であった。悟に妻子がいることも分かっていたし、それなりに付き合う覚悟はできていた。しかし、ついに第一線を越えてしまうと、藍の感情が収まらなくなった。先輩医師として、男として、悟を更に深く愛してしまった。
藍は悟に景子との離婚を迫るようになり、ついに、景子は悟と藍の関係を知ることになった。悟は景子にとって、良き夫であり、頼もしい父親だった。それゆえに、突然の裏切りの報告は彼女に衝撃を与えた。
憤りと愛情が複雑にからみあって、彼女は悟を許せない反面、これまで築き上げてきた二人の関係や家庭を壊す気持ちにもなれなかった。とりあえず、徹也と共に実家に戻ることにした。
景子の元には、耳鼻科や内科に進んだ同級生の女医から、また、実家に戻ったことを知った高校時代の友人たちから続々とメールが入った。
「昔、チューリップというグループが歌った“我がままは男の罪。それを許さないのは女の罪・・・・・”という歌詞が流行ったみたいね。冗談じゃない。そんなの男の身勝手で、女の気持ちを全く理解していない」
他にも数多くのメールが入ったが、そのほとんどが悟に対する批判であった。しかし、後で考えてみると、そのほとんどが興味本位でいいかげんな意見である事が分かった。
そんな友人の一人に沙香がいた。
『浮気は遊びではなく裏切りよ!』
彼女は悟の行為を強く非難し、景子に離婚を強く勧めた。しかし、沙香自身、結婚相手には当時妻子がいた。略奪愛なのであった。
他人の男女関係の不幸は、本当は蜜の味のように甘くおいしいものである。
そんな中、彼女の両親だけは唯一、息子・徹也のことも考えて、景子に冷静な対応を求めた。
悟も誠実に景子に謝罪した。
『自分自身の一瞬の気の緩みであって、君への愛を失った訳ではない。女性のネーベンと長い時間一緒に仕事をしているうちに、次第に馴れ合いになり、オーベンとネーベンの上下関係が崩れ、自分に対する信頼や尊敬が甘えに変わってしまったのだろう。また、彼女が医師として着実に成長していく姿をみていて、微笑ましく感じるようになり、また自分自身もそんな状況を、つい楽しんでしまった。そして、その延長線上で彼女を受け入れてしまったが、決して家庭を失っていいと思った訳ではない。身勝手かもしれないが、後悔している。できることならやり直したい』
しかし、時間が経つほど気持ちがこじれ、なかなか元の鞘に収まることができなかった。ついに弁護士を通して離婚の調停が行われ、景子の本意とは必ずしも一致しない方向へ行ってしまった。
離婚が成立して6ヶ月後、悟は深巻藍に結婚を迫られ、新しい生活を始めた。景子は正式に大学病院を退職し、実家の眼科医院の手伝いをしながら息子の徹也を育てていた。
一方、悟と藍が結婚し、1年位経つと、二人は恋愛と結婚との違いを感じ始めていた。すれ違いの生活と自己主張の強い藍に悟は嫌気がさしていた。そして、ついに結婚から2年目で二人は別れを決意した。
景子にも好意を寄せる男性が現れ、求婚されたが、彼女は結婚までは踏み切れなかった。
徹也が10歳の時、悟は交通事故に巻き込まれ、突然の死が伝えられた。もう過去の人だと思いながらも、景子の心は動揺していた。徹也にとってはたった一人の父親であることを考えて、徹也と二人で通夜に参列し、悟に本当の別れを告げた。しかし、深巻藍の姿は見られなかった。
悟の49日も過ぎた頃、徹也が突然、野球をやりたいと言い出した。初めは何故野球なのかと疑問に思ったが、仲の良い同級生に誘われたのであることがすぐに分かった。そして、友だちと同じ野球チームに入部した。
『父親がいない男の子は成長するにしたがって、母親を小馬鹿にして、横道にそれやすいから気をつけなさい』
景子は両親から助言されていた。
彼女も男子は家の中でテレビゲームに熱中するより、外で群れて遊び、社会の上下関係や友人関係を小さい頃から体験してほしいと願っていたので、少年野球チームに入部することは賛成であった。
入部した初めの頃は、景子も一生懸命、徹也の練習を見に行った。
『徹也には野球の才能がありますよ』
監督が景子に話しかけた。
親馬鹿なのかもしれないが、彼女の目にも徹也が同じ学年の選手よりも球が速く、捕球も上手で、バッティングも良い当たりを連発しているように映った。
徹也は、低学年チーム(小学4年生以下)のエースに選ばれるまでには時間がかからなかった。
徹也が5年生になった時、景子の父・吉蔵が病に倒れた。その結果、彼女が毎日医院の診察を行うことになった。数ヶ月後、母・民江も吉蔵の看病に疲れたのか、次第にうつ状態となっていた。景子には診察の他に吉蔵の看病、民江の介護が重くのしかかった。彼女には時間的にも体力的にも、徹也の試合の応援に行く余裕がなくなってしまった。
徹也も母親・景子の大変さが理解できるとしになり、母親にこれ以上負担をかけさせたくないと思い、野球のことは積極的に話さなくなった。それゆえに徹也が6年生になった時、エースとなりチームの大黒柱として活躍し、チームを優勝に導いた事を、景子は後から、同じチームの母親から偶然に知らされた。
徹也が中学に進学したとき、景子の父親・吉蔵の容態が悪化し、ついに他界した。
まだ体調の良い時に、吉蔵はベットサイドに付き添っていた景子に話しかけた。
『私はもう駄目だよ』
『お父さん、何馬鹿なことを言っているの』
『私も医者のはしくれだ。あとどの位生きられるか分かるよ。それより、お前はもっと徹也の事に気を使った方がいい。彼はそろそろ思春期だからな』
『徹也なら大丈夫よ。あれでも、結構大人で、しっかりしているから』
『さすが、悟君の血が半分徹也の体に流れているからね』
『変なこと言わないでよ』
『私はお前が悟君のたった一度の過ちを許せず、こんな人生を送ることになってしまったのが、残念だよ』
『今さら、もういいのよ』
『もう少し話を聞いておくれよ。私も若い頃野球をしていてね。一時は甲子園を目指して頑張っていた時もあったんだよ。県の予選で、私は大事なところでエラーをしてしまい、チームは敗れてしまった。しかし、監督は私を一言も責めようとせず、むしろ「お前のおかげでここまで来れたんだよ」と慰めてくれた。怒鳴りつけられた方がどんなに気が楽だったか。私は泣き崩れたことをいまだに記憶に残しているさ。許したり、受け入れたりすることは難しいが、時には大切なことなんだよ、分かるかい?』
『確かにね。お父さん、私は本当は彼を許したかった。でも何故か素直に許せなかった。私も彼と徹也との生活を壊したくなかったのよ』
景子は目に涙を浮かべていた。
その会話の数ヶ月後、吉蔵はこの世を去った。
民江の病状はうつ病ではなく、認知症であると診断された。そして、その症状は増悪の一途をたどった。徹也が中学2年生の時、景子はついに民江を介護施設に入所させる事を決意した。そうすることで、景子にも自由な時間ができ、徹也の野球の応援に行く余裕が生まれた。

そんな頃である。
『ああ、腹がへったな』
台所で夕食の支度をしていた景子にその声が届いた。彼女は思わず元夫の悟の声かと思い、ハッとした。最近、息子の徹也の声や仕草が悟に似てきた事に、景子には複雑な思いが生じている・・・・・・。

或る日、景子は徹也に無断で試合を見に行った。そして、彼の投げるフォームを見て驚いた。父・悟と全く同じフォームだった。まるで悟の甦りであった。特に徹也が悟と同じようにサウスポーであったことに驚いた。徹也は幼少児の時に左利きであることが分かり、将来の事を考えて、すぐに右利きのトレーニングを始めた。それゆえに、鉛筆も箸も右手で自由自在に使うことができた。4年生の時も右手でボールを投げていた筈だった。
試合は徹也のチームが勝利を収めた。その日の夕食に景子は徹也に思いきって聞いてみることにした。
『徹ちゃん、実はね今日お母さん、徹ちゃんの試合を応援に行ったんだ』
『エッ、本当』
徹也から怒りの罵声を浴びせられると心配していたが、明るく嬉しそうな答えが返ってきて、景子はほっとした。
『ところで、徹ちゃん、いつから左で投げるようになったの?』
『小学校の2年生の頃からかな』
『エーッ、どうして?』
『1ヶ月に1回お父さんに会えたでしょ。あの時、いつもお父さんから野球を教わっていたんだ』
離婚の調停において、悟は1ヶ月に1回、朝9時から夕方5時まで徹也と二人きりで過ごせる権利を手に入れた。
『お父さんがね、“野球では絶対サウスポーは有利だから”と言って、その時だけは左利きでボールを投げる練習をしていたんだ。“お母さんの前では絶対に右利きでいるんだぞ!”と念を押されたよ。お母さんが野球の応援に来なくなるとコーチに“左で投げられる”と言って見せたら、“右よりもコントロールも良いし、球も速い”と監督に褒められて、すぐにサウスポーピッチャーの練習を始めたんだ』
『だから、私が応援に来ることをあんなに嫌がったのね』
『そうだよ。本当は応援に来てほしかったんだよ』
『馬鹿ね。お父さんの言うことを真に受けて』
『でも、もういいんだ』
『どうして?』
『僕はこの2年生の夏の大会で野球をやめようと思っているんだ』
『嘘でしょ』
『本当だよ。僕はお父さんのような医者になりたいんだ』
何故、徹也が目指している医者が自分ではなく悟であるのか?景子は悔しい反面嬉しくもあった。徹也の心の中には、しっかり父親の存在が根付いていたのだ。
『だから、この夏の大会が終わったら、野球をやめ、猛勉強を始めて、県下で一番の高校を目指すよ』
徹也の成績は決して悪いものではなく、クラスでも5本の指に入るくらいだった。
『医学部に合格したら、また野球部に入って東医体の優勝ピッチャーになるんだ。そして、かわいい娘を見つけて野球部のマネージャーにする訳よ』
悟は野球を教えながら、一体何を徹也に伝えていたのか?景子は想像すると恥ずかしくなった。
『お父さん、突然死んじゃって、もうキャッチボールができなかったけれど。でもね、お父さんと心のキャッチボールはまだ続いているんだよ。試合中、何度かピンチになるでしょ。その時、お父さんの声が聞こえてくるんだ。“このバッター、さっきストレートを打ったからカーブで勝負しろ”とか“このバッター、打ち気満々だ。内角高めに投げれば必ず空振りするぞ”とか“スクイズがあるから外角にはずせ!”とかね』
『本当、良いわね。お母さんもピンチの時、お父さんの声をもっと聞けば良かったかも?肝心な時に耳を閉じちゃったの』
『もう、しょうがないじゃないの。ところで、来週の日曜日が決勝戦なんだ』
『何時から?』
『1時からだよ』
『お母さん必ず行く、絶対行くからね』
徹也に誘われるのは、これが本当に最後かもしれないし、彼の雄姿を見られる最後のチャンスかもしれなかった。

決勝戦当日、徹也が家を出た後、景子は突然、民江が介護されている施設より、連絡を受けた。
『たった今、民江さまが倒れられ、救急車を呼んで病院に搬送しました』
景子は急いで、民江が搬送された病院に向かった。
担当医師から、『脳梗塞を起こしたが、現在のところ生命の危険性はない』と説明を受けた。
民江は救急処置室から、一般病棟の個室に移された。どうやら病状は、ひとまず安定したようだ。その時、時計を見ると針はだいぶ前に午後1時を回っていた。景子は少しの間、外出することを告げて、野球場に向かった。
『今日は徹也の最後の試合なんだから、絶対に応援したいの。間に合って!』
タクシーに乗っている間、景子は何度も心の中で懇願し叫んだ。
彼女が野球場の応援席に座った時、徹也のチームは最終回の守備についていた。2対1で徹也のチームはリードしていた。攻撃側も必死だった。徹也も少し疲れが出てきたのか、それとも優勝を意識したのか、フォアボールとヒットを打たれた。しかし、なんとか2アウトまでたどりついた。
徹也の投球フォームは、悟と瓜二つだった。景子は学生時代の東医体決勝戦を思い出していた。
彼女はマネージャー兼スコアラーとして、ベンチに入っていた。あの時も、2アウト満塁になっていた。彼女の心臓の鼓動は最高潮に達し、とてもスコアーをつけている余裕はなかった。しかし、そのピンチをしのぎ、J大学は優勝を果たした。
その夜、祝勝会の後、景子と悟は結婚を誓った。

『ボール!』
球審のコールが景子の耳に届いた。カウントは2ストライク3ボールになった。徹也はきっと父親・悟から助言を聞いているのであろうか?一人でうなずいていた。
“今気付いたけれど、徹也をあなたと二人で育ててきたのね。この子は大丈夫。これからもまっすぐ歩いていくわ”景子は心の中で呟いた。
彼女の瞳には徹也と悟がダブッて映っていた。
『悟!頑張って、信じているから!』
景子は思わず叫んだ。
次の瞬間、徹也の投げたボールはキャッチャーミットにおさまった。

江戸川区医師会・会報誌・江戸川2009年11月号に記載

紀行文 第6作 古都プラハの旅

23年前、大学病院に勤務していた時、私は教授から『国際オーディオロジー学会で発表してみてはどうか』と打診された。当時、教授からの打診は、ほぼ命令に等しいものだった。学会の開催地はチェコスロバキアの首都・プラハであった。
『君は、将来パリ・ロンドン・ニューヨーク等はいつでも行けるだろう。今回、私の命令だからプラハに行く羽目になったが、将来二度と行く機会がないから、“あの時プラハに行ってよかった”と、きっと私に感謝することになると思う』
教授は明言した。
その頃、私がチェコスロバキアについて知っていた事は、東京五輪・メキシコ五輪で活躍したチャスラフスカという名前の美人女子体操選手と、ボヘミアングラスくらいであった。
当時のチェコスロバキアは共産圏国家である。私はアメリカのTVドラマ・スパイ大作戦に完全に洗脳されていて、“共産圏、即ち独裁国家で悪の国、一度入国したら、なかなか出国できない”と勝手に恐れを抱いていた。
しかし、実際に行ってみると素晴らしい国だった。当時、日本医学界において、妻を同伴で学会に出席することなど全く認められておらず、『学会は観光旅行じゃないんだ!』という風潮だった。
プラハの街は、私に深い感動を残し、帰国する頃には、いつか絶対に妻と二人で訪れようと、心に誓うまでになっていた。
時が過ぎて、子供たちが大学生になり、親離れしたのをきっかけにプラハの旅を思い立った。時期は6月に行くことにした。何故6月を選んだのかというと
3年前、FIFAワールドカップがドイツで6月に開催された。その状況をテレビで観戦していると、6月のヨーロッパは最高の天候に思われたからだ。近年の7月・8月のヨーロッパは、異常気象で猛暑だったり、大洪水だったりしている。
日本からプラハへの直行便がないので、今回はパリに3日間、プラハで3日間過ごすことにした。

前漢の武帝がローマ帝国を滅亡させた?

ここで、簡単なヨーロッパの歴史を振り返ってみよう。中国・前漢時代の武帝が霍去病(カクキョヘイ)を匈奴に、張騫(チョウケン)を大月氏に派遣して攻撃させた。その結果、それら異民族が西へ移動し、そこにいたフン族(匈奴と同じという説もある)が西へ移動し、そして、その地で生活していたゲルマン民族が西へ大移動し、ローマ帝国に侵入し、395年東西に分裂したローマ帝国のうち、ついに西ローマ帝国は476年に滅亡した。という訳で、巡り巡って武帝がローマ帝国を滅亡させたのかもしれない。その後、チャールズ大帝がフランク王国を建国した。大帝死後、3人の子供たちに分割され、西、東、ロンバルト王国になった。
西フランク王国は後にフランスとなり、ロンバルドはイタリアの礎になった。一方、東フランク王国は962年オットー1世によって神聖ローマ帝国となった。しかし、この帝国は次第に多くの王国が存在することになった。その一つにボヘミア王国があり、その首都がプラハであった。その後、プロシア王国のウィリアムと宰相ビスマルクはナポレオン3世が支配するフランスを破り、ウィリアム1世としてベルサイユ宮殿で戴冠式を行い、その後ドイツを統一した。
私は遠い昔、大学受験の選択科目で世界史を選択した。中国史は北京原人から毛沢東の中華人民共和国まできめ細かく勉強した。しかし、西洋史はこのドイツ統一以降は手が回らなかった気がする。
ミュージカル「エリザベート(フランツ・ヨーゼフ皇帝の妃)」は、日本でも大人気な作品だが、今年、私はその孫娘を主人公にした「エリザベート(ハクスブルク家最後の皇女)」(塚本哲也・著・文春文庫)を読んで、神聖ローマ帝国の一つのハプスブルグ家に興味を持ち、この名門貴族が如何にプラハと関わりあったかを理解できた。更に、彼女の生涯を通して、ハプスブルグ家の崩壊から始まる激動の近世東欧史にたどり着くことができ、チェコ・プラハへの旅に思いが膨らんだ。
また、明治時代にチェコとかかわった女性を知って驚いた。彼女の名前は青山光子、オーストリア・ハンガリー公使にみそめられて結婚した。この公使はクーデンホーフ・カレルギーの一族で、ボヘミア地方の貴族として名高い。

パリでの3日間

まずパリに到着した。妻は入国審査官に40歳前と見られたらしく、パスポートに記載された年齢よりは、かなり若く見られたことに気をよくした。更にフランスが好きになったようで、長旅の疲れも一挙に回復し、荷物をピックアップして、『さあ行きましょう』と元気に私に声をかけ出口に向かった。『フランス人は、本当に女性をおだてるのが上手いな・・・』
私は呟きながら彼女の後について行った。
私たちは3日間、オペラ座の近くのインターコンチネンタルホテルで過ごすことになった。芸術好きな妻の意見を取り入れて、オルセー美術館、ルーブル美術館を訪れた。私たちと同世代と思われる観光ガイドがやって来た。彼女は20年前、フランスを訪れ、そのままフランスに移住し現在ではフランス人の夫と子供がいるそうである。フランス政府が公認する観光ガイドという資格を得ることは難しいらしく、彼女は2年間の専門学校に通ったが、1回では合格しなかった。免許取得後、更に美学・美術史専門学校「エコール・ド・ルーブル」へも通ったそうだ。それゆえ、彼女の知識、説明は歴史好きの私を充分に納得させた。これら美術館を拝観するには、事前に2日間有効なPARIS MUSEUM PASSを購入しておくと便利である。いちいち入場券を買わなくても済み、タイムロスが少ないからである。しかし、入場には手荷物検査と身体
検査があり、ここでタイムロスが生じる。やっと入場すると、美術館の内部の構造は表現できないほど、素晴らしい作品が展示されている。各々の作品については周知の通り、絶賛の評価が付けられている。これらの有名作品を間近で鑑賞でき、尚且つ、一緒に写真におさめることが可能だ。そこで、妻と二人で気に入った名画の前で、ガイドにデジカメを渡し、シャッターを押してもらおうと思った。しかし、断られた。『本当は撮影は禁止なんです。しかし、これだけの多くの観光客にそのルールを守らせるのは不可能なので、フラッシュをたかないのを条件として、大目に見ているんです。しかし、私はガイドとして、お客さんのためならルールを破ることさえ辞さないとは思っていません』私たちは彼女のガイドとしてのプライドに敬意を払うのと同時に、日本の社会に疑問を抱いた。
“お客様は神さまでございます”と台詞をはいて土下座した芸能人がいた。“お金を払えば客であるから、客の言うことには何でも従え!”現在の日本社会のクレーマーたちの中には、こんな発想をする者が多いと思われる。売る側のプライドを認めるべきだ。「三方良し」という慣用句がある。昔の近江商人が言ったらしい。売って良し(安全で自信のある物を売る)・買って良し(買って満足する)・世間良し(その結果、地域経済が活性化される)
現代日本において、偽装してでも売り、些細な事でもクレームを付け、結果的に売る側・買う側の信頼関係が失いつつあるのが残念でならない。
夜は私の意見を取り入れ、ムーランルージュにディナーショーを見に行った。ショーが始まる前に食事を摂るのだが、私はそこで少しワインを飲んでしまったせいか、ショーが始まる頃には眠くなっていた。幕が開いた。いきなりトップレスの美人フランス女性たちの踊りが始まった。それと同時に、私の血中アドレナリンは上昇し、眠気がすっ飛んだ。約2時間のショーだが、そのうちに私の大脳はトップレスに慣れ、再び眠気が襲ってきた。しかし、ショーとショーの間に行われた手品・コント・腹話術等、結構楽しめた。そして、深夜12時にホテルに戻った。

プラハ入国

23年前にチェコを訪れた時は、チューリッヒからプラハへ向かった。飛行機は左右2列ずつで、100人位乗っていたであろうか。隣に座っていた外国人から突然話しかけられた。彼は東ドイツの日本語学科の学生で、一度も日本に行ったことがないという。しかし、流帳な日本語で、日本人の愛国心や日米関係、自衛隊等を詳しく質問してきた。私はそれなり答えたが、後で彼が国家警察ではないかと疑った。
当時、私はチェコスロバキアへ入国するのに大変な目に遭った。荷物をピックアップして入国審査へと向かった。そこで、女性検閲官が大声で話していた。彼女の口の周りはひげがうっすらはえていた。当時、東ヨーロッパ共産圏の国の女性オリンピック選手が優勝し、金メダルを高く上げ観客に見せる時、その女性選手には脇毛が生えていることはよくあることだった。それゆえに、その女性検閲官がひげを剃らなくても当然だったのであろう。しかし、彼女の剣幕は激しかった。しかし、チェコ語で話しているので、全く理解できなかった。運よく、私の前に並んでいたアメリカ人が、彼女の怒りを理解したようだった。
『ドルをコルナ(チェコ通貨)に変えてこい!コルナを持っていなければ入国させない』
私はアメリカ人の後について行った。彼のする通りに50ドルをコルナに変えた。その時、1ドルにつき12コルナに変換できた。コルナを見せて、やっと入国できた。
空港ははるかに時代遅れのものだった。タクシーは東ドイツ製のポンコツ車だった。道は空いていて、ホテルまではスムーズに到着した。ホテルでまたドルをコルナに変えると、1ドルが14コルナだった。
翌日、学会会場へ行くため、再びタクシーを利用した。車内で運転手に『Change The Dollar』と話しかけられた。昨日、夕食でコルナを使ってしまったので、交換に応じたところ、運転手は警察の目を気にしたのか、周囲から見えないようにドルを受け取って、コルナを私に手渡した。私は1ドル24コルナをもらった。当時のチェコの人々は本当にドルを欲しがっているようだ。その後、私は味をしめて、タクシーの中でどんどんドルを交換し、更に或る運転手に学会の土産用として日本のサクラヤで購入した980円の電卓を見せた。彼は喜んで、多額のコルナを差し出した。手に入れたコルナを握りしめて、私はチェコ名産のボヘミアンガラスを買いに行った。そして、そのガラス製品の値段の安さに再び驚き、予定もしなかった数のボヘミアンガラス製品をお土産として購入してしまった。
後日、そのガラス製品をスーツケースに全て収納できないことに気付き、あわてて旅行カバンを買いに行った。すぐに、カバン屋が見つかり、気に入ったカバンを取ってレジの所に持っていくと、レジ係の女性がチェコ語でしゃべりだした。私はその口調から怒っていることが明らかに分かった。しかし、何故怒っているかが分からなかった。彼女のジェスチャーから、『列の後に並べ』と指示していることが理解できた。当時チェコでは、品が不足していたのと同時、自分の順番がきて買う品物を決めることができるようだ。前の人が品定めに時間を費やしていると、なかなか自分の物が買えないのである。約1時間半後、やっと私の順番がきた。私は先ほど手にしたカバンを指した。係りの者はそれを倉庫に取りに行ったが、なかなか戻って来ない。やっと戻ってきたのでお金を支払おうとしたら、会計は先ほど私を怒りつけた女性だった。何と不合理な商売であろうか、彼女は無口でバッグを紙袋にいれて、私の差し出したコルナを受け取った。
『ありがとうございました』等の言葉は全くなかった。
そんな事を思い出しながら、私はパリからプラハへ向かった。出国の際、シャルル・ド・ゴール空港で、テロ防止のためとはいえ、そのボディーチェックは厳密だった、私もジャケット・靴を脱がされ、更にベルトを外すように命じられた。現在の複雑な国際問題を感じさせられた。
私たちはプラハ空港に到着した。現在の空港は近代的で清潔で明るかった。ホテルへ向かう途中、道路はチェコ・ドイツ・フランス・アメリカ・日本・韓国等の車であふれて渋滞していた。この23年間にこの国は大きく変わったようだ。
フォーシーズンズホテルに到着し、チェックインをしようとした時、
『お客様、本日から宿泊予定の部屋はあまり景色の良いところではありません。1泊100ユーロ(15000円)を追加していただければ、もっと素晴らしい部屋を御用意できます。このホテルはダブルベッドが多く、お客様の希望しているツインベッドの部屋の数が少ないのです。日本人は夫婦なのにどうして別々のベッドを好むのでしょうか?』
コンシェルジュは不思議な顔をして私に問いかけた。
私は彼が絶対に日本語を理解できないと確信し、笑いながら『大きなお世話だよ!』と日本語で話した。とりあえず、彼と私たちは部屋を見せてもらった。最初、予約した部屋と、彼がチョイスした部屋を比較した。その景色の違いは歴然だった。薦められた部屋からはプラハ城、モルダウ河がよく見れた。一泊100ユーロ加算料金を支払っても、この部屋で3日間過ごした方が良いと即決し、日本語で『この商売上手!』と言いながら、彼に選択した結果を伝えた。

カレル橋

まず、トランクを開いて、夕食を摂るために外出した。午後8時、6月のプラハは夜になるのが10時位らしいく、まだまだ観光できる。
ホテルからカレル橋が近かったのでその橋を渡ることにした。カレル橋は1357年カレル4世の命によって建てられた。両側の欄干に並ぶ30体の聖人像が目を引く。その中には日本でもなじみ深い聖フランシスコ・ザビエル像が設置されている。ザビエルを支える人々の中に、東洋人らしき人物が見られるのが興味深い。
橋のほぼ中央から景色を眺めていた。しばらく経って、私が声をかけると、妻は『涙が出ちゃう』と言って、ハンカチを取り出した。モウダウ河の流れの東岸にはドヴォルザークホール、西岸にはプラハ城がそびえている。そのあまりにも素敵な景色に言葉が出ず、感動がこみ上げてきたそうだ。
コンシェルジュが予約してくれたレストランで、フランス料理とチェコワインを味わった。チェコはワインとビールも有名らしい。

プラハ城

翌日、私たちはモルダウ河西岸の小高い丘の上にそびえているプラハ城へ向かった。ボへミア王国全盛期の14世紀、カレル4世の治世に現在の偉容がほぼ整えられた。城壁に囲まれた広大な敷地には、旧王宮・教会・修道院などが建っている。また建物の一部を利用した博物館や美術館がある。また以前、錬金術師が住み付いた家並みがあり、現在ではお土産店になっていて、その通りを「黄金の路」と呼んでいる。
城の正門とプラハ市内を見つめるようにマサリックの像が立っていた。第一次世界大戦後、チェコスロバキアはハプスブルグ家が支配していたオーストリア・ハンガリー帝国から念願の独立を果たした。その時の初代大統領がマサリックだ。彼はチェコスロバキアの独立と発展を守るため、その人生を捧げた。しかし20年後、独裁者ヒットラー率いるナチスドイツに、チェコスロバキアは占領されてしまった。1938年ミュンヘン会談でイギリス首相チュンバレンとフランス首相ダラティエはヒットラーの威嚇に屈し、また自国の利益のみを優先したため、チェコスロバキアを見殺しにした。チェコスロバキアは当時工業国で軍事的にも強力な国であった。もし、フランスと協力してドイツを挟み打ちしていれば、第二次世界大戦は起きなかったかもしれない。1940年、フランス軍はダンケルクでドイツ軍にドーバー海峡へ追い落とされ、英国軍の救援船で何とか英国に脱出した。6月14日パリは占領された。その後、米英を中心とする連合軍は反撃を開始し、1944年ノルマンディーに上陸し、パリを開放した。
ド・ゴール将軍はパリ凱旋の際、『自分が先頭で行進したい』とアイゼンハワー将軍に懇願したそうだ。パリ市民は歓喜し、『フランスを解放したのはド・ゴールだ』と勘違いしたようだ。数ヶ月後、ドイツは降伏した。
戦後、たった数ヶ月しかまともにドイツと戦わなかったフランスは、戦勝国の仲間入りをした。そして、国際連合の常任理事国として、大きな顔をしている。私はそのことに納得できない。後に、英国のサッチャー首相、フランスのミッテラン大統領は、各々プラハを訪問した際に、戦前の自国のとった行動に対し、チェコスロバキア国民に謝罪したそうだ。
私はマサリックの像の前に立って、心の中で話しかけた。
『あなたが命をかけて建国し、発展させたチェコスロバキアは、一時、ドイツにズデーテン地方を、ハンガリーにスロヴァキア地方を、ポーランドにチェルシー地区を、ソ連にランア地方をぶん取られてしまいましたが、今は元に戻り、古都プラハの美しさは健在ですよ。これからも見守ってください』
チェコの紙幣の図柄は、23年前には労働者・農民・子供であった。それが現在では歴史的な人物に変わっていた。チェコにおける最高額紙幣2000コルナに描かれているのはマサリックである。

バーツラフ広場

ここは広場というよりは、長さ750m、幅60mの大通りである。正面には国立博物館が堂々と構えている。広場を見守るのは聖バーツラフの騎馬像だ。バーツラフはボヘミア最強の王と言われ、国難が迫った時、騎士たちを率いて敵を撃退したそうだ。
第二次世界大戦後、ナチスドイツはプラハを去った。その代わりに今度はスターリン率いるソ連軍が入ってきた。国民は社会主義を選択した。スターリンの苛酷な独裁政治はチェコでも同じだった。
スターリン死後、ソ連でフルシチョフが登場し、スターリン批判を開始した。1968年、チェコにおいても改革派のドゥプチェクが第一記事に就任し、言論の自由をはじめとするさまざまな権利を自由の獲得に向けて走り出した。これは“プラハの春”と呼ばれた民主化の動きであった。しかし、この改革の波が一気に東欧諸国に押し寄せることを恐れたソ連は、その改革を阻止するため、このバーツラフ広場にワルシャワ条約機構軍(主にソ連軍)の戦車を乗り入れ、軍事介入を決行した。その結果、プラハの春は粉砕された。