航空機と戦車

第3弾 隼 帰還せず

フライヤー号

この部屋は妻から「オタク部屋」と呼ばれ、家族は誰も近づかない。この部屋にはピアノが1台、パソコン、そして2つの棚がある。1つの棚には現在のところ航空機約170機、戦車約50台が陳列している。もう一つの棚には他に集めた物を収納している。この理由については以前説明した。
第1弾として、零式艦上戦闘機(21型・32型・22型・52型)を紹介した。
第2弾として、零戦と戦った米国機(P40ウォーホーク・F4Fワイルドキャット・F40コルセア・P38ライトニング・B25ミッチェル・P29スーパーフォトレス・P51ムスタング)を紹介した。
今回は飛行機の簡単な歴史と日本陸軍機を数機紹介する。

<空への憧れ>
人類は常に空を飛ぶ夢を抱いていた。人も鳥やコウモリのように飛ぶことができるという幻想をもったため、古来より何回も飛行実験が繰り返された。その結果、勇敢で愚かな人達は命を落した。
レオナルド・ダ・ビンチも「人類は翼を羽ばたかせることによって、人を空中に支えることを実現する能力がある」と書き残している。
1783年6月モンゴルフィア兄弟がパリで熱気球を空中に掲げ、人類は初めて地上から空中に舞い上がった。
1890年代、オットー・リリエンタールはハンググライダ−を用いて2000回以上の飛行を行った。
1903年12月7日、ライト兄弟の弟オービルが腹ばいに乗ったフライヤー号は米国ノースカロライナ州キティホーク郊外のキル・テヴィル・ヒルズと呼ばれる砂丘から空中に浮かび上がった。
飛行時間は12秒、飛行距離は37m。この日4回目の飛行で兄ウィルバーが操縦し、飛行時間は59秒、飛行距離は260mを記録した。世界ではじめての“人間の操縦する動力付き飛行機”の誕生であった。

<航空ショーと記録更新>
航空機の技術は急速に進歩した。欧米の各地で飛行の記録更新や冒険的飛行が試みられた。有名なものとして、1909年7月エベール・ラタムとルイ・ブレリオの二人は英仏海峡横断決行を決行した。このレースには1000ポンドの懸賞金がかけられた。

<軍用機>
第一次世界大戦が始まると、飛行機は軍用機として使用されることとなった。最初は偵察機が主で、上空から敵陣地を航空写真で撮影した。次に空中から爆弾を落した。爆撃機の始まりであった。次第に飛行機の機能と操縦能力が向上し、空中戦を行うようになった。戦闘機の始まりであった。


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フォッカーDr.1(ドイツ)

フォッカーDr.1(ドイツ)

エンジン:110馬力、性能:最高速度165km/時、滞空時間:1時間30分、重量:406kg、寸法:翼幅7.2m、長さ:5.77m、高さ:2.95m、武装:7.22mmLMG08/15前方射撃固定機関銃2基

この戦闘機を操縦して撃墜王と異名をとった男達がいた。マックス・インメルマン、オズワルト・ベルケ、そして最も有名なパイロットはマンフレート・フォン・リヒトホーフェンであった。彼はレッドバロン(赤い男爵)とも呼ばれ、連合軍の戦闘機を80機撃墜した。


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ニューボールNie.28C.1(フランス)

ニューボールNie.28C.1(フランス)

エンジン:165馬力、性能:最高速度206km/時、滞空時間:1時間30分、重量:436kg、寸法:翼幅8.16m、長さ:6.4m、高さ:2.5m、武装:7.7mm

ビッカーズ前方射撃固定機関銃2挺、胴体上部および前方左側部分に装着
シャルル・ヌンジェッセはヴェルダンの戦いで10機を撃墜し、ルネ・フォンクは通算75機を撃墜し、連合国のトップ撃墜王となった。


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ソッピース・キャメル(イギリス)

ソッピース・キャメル(イギリス)

エンジン:130馬力、性能:最高速度174km/時、滞空時間:2時間30分、重量:436kg、寸法:翼幅8.53m、長さ:5.72m、高さ:2.59m、武装:7.7mmビッカー前方射撃固定機関銃2挺・最大11.3kgの爆弾 

第一次世界大戦はサラエボで1914年、一発の銃弾がオーストリアの皇太子を暗殺した。それをきっかけにヨーロッパ中が大戦になった。ドイツ軍のU−ボートによる無差別な輸送船攻撃によって、ついにアメリカがモンロー主義を破ってヨーロッパ戦線に参戦すると、状況は連合軍に好転し、1917年ロシア革命が起こり、ロシアは戦線を離脱した。
1918年ドイツ水兵の反乱が起こり、ドイツ帝国は戦争継続が不可能になり降服した。
日本において第一次世界大戦は好景気をもたらした。多くの成金が生まれた。“成金”とは将棋から生まれた言葉で、“歩”が相手陣地に入ると“金”になる。現在ではヒルズ族と呼ばれているらしい。第一次世界大戦はドイツ・オーストリアの帝政が崩壊し、デモクラシーの勝利とされた。日本では大正デモクラシーと呼ばれた。
大戦が終り、世界は次第に不景気に陥った。1929年(昭和4年)10月ニューヨーク市場で株が大暴落した。世界恐慌の始まりであった。
日本では次第に軍部が擡頭し始めた。特に関東軍は中国への侵略を拡大した。石原莞爾(関東軍参謀)は大東亜共栄圏という構想をぶち上げた。
当時の資本主義・帝国主義は植民地経営のよって成り立つと信じており、中国は地球上に残された唯一最大の“標的”であった。
昭和3年関東軍は満州の軍閥・張作霖を奉天で爆殺した。更に昭和6年奉天郊外柳条湖の満州線路を爆破し、中国軍の謀略と決め付け、関東軍は総攻撃を開始した。いわゆる満州事変の勃発であった。翌年上海でも日中両軍は武力衝突した(第一次上海事件)。同年清朝最後の皇帝・溥儀を擁して満州国の独立が宣言された。当然中国・欧米諸国は「満州国は日本の傀儡国家」と猛反発した。昭和8年日本は国際連盟を脱退した。
昭和12年7月日本軍と中国軍は盧溝橋付近で対峙していた。7月7日日本軍は夜間演習を行った。その後、第八中隊は演習中止と集合を伝えるため、各部隊に伝令を出した。深夜、盧溝橋付近に銃声が鳴りひびいた。点呼をとってみると、伝令に出した二等兵がいないことがわかった。中隊長は大隊長へ「中国軍に攻撃された」と報告した。その報告は連隊長まで伝えられた。そして報復攻撃の許可がおりた。ところが、そのころには行方不明の二等兵は無事に戻って来た。しかし、この攻撃命令は撤回されなかった。本格的な日中戦争の始まりである(支那事変・盧溝橋事件)。
何故この日が始まりであるか?日清戦争以来、中国は日本の強引な要求に対して、何度も大幅な譲歩を繰り返してきた。今回も関東軍は従来通り即座に中国軍を壊滅し、謝罪と反省、そして占領地と認めさせることができると高を括っていた。しかし、蒋介石は“二度と日本に頭を下げることはしない”徹底抗戦を決意した日が、その日であった。
その年の8月には日本陸軍は北京を占領した。一方、海軍陸戦隊は上海で中国軍に周囲され窮地に陥った(第二次上海事件)。そこに日本陸軍が救援に駆けつけた。日本海軍と陸軍が協力して戦った数少ない作戦であった。戦争が拡大し始めた。陸軍・海軍の総帥権は天皇であったため、現地の司令官達は首相の指示を無視し、事後報告した。その後、内閣は何度も総辞職に追い込まれた。
陸軍の暴走を止められなくなった海軍も、上海で陸軍に助けてもらった恩義があるためか、陸軍の進撃を止めることもなく、上海・南京・重慶への空爆を繰り返した。
最近の日本のニュースで、小池防衛大臣が4年間も権力を握っていた事務次官(通常1〜2年で退任し後輩に職務を委ねる)の更迭がなかなかできなかった。このことがシビリアンコントロール崩壊の前兆と脳裏に浮かぶことは、私の考えすぎなのか・・・。
当初、マスコミや一部の防衛族議員達は、小池大臣の強引さを批判し、事務次官の業績を評価した。しかし次官退任後、収賄容疑で逮捕されると、マスコミは一転し、彼を酷評した。
昭和12年蒋介石は南京に退却し、徹底抗戦した。しかし、12月日本軍は南京を占領した。多数中国人の死傷者が出た。後日南京大虐殺として報道された。一方、広島・長崎への原爆投下、東京大空襲等によって兵隊以外にも無抵抗な老人・女性・子供達が多数死傷した。しかし、これらは大量虐殺とは報道されない。人々は被害者の立場を強く主張するが、加害者としての行為もお互いに反省するべきでないか。
蒋介石は重慶に拠点を移した。日本の中国大陸での勢力拡大に危機感を抱いた欧米諸国は中国に必死に援助・協力した。日本より先に中国大陸を侵略した欧米諸国は、この時点から中国政府にとって略奪者から友好国となった。昭和15年、日本と三国同盟を結ぶドイツさえこの時は中国に武器を輸出していった。
昭和14年、関東軍はソ連軍とノモンハンで衝突した。関東軍は完敗し、生存者は約4%であった。ソ連軍の実力を痛感させられた。昭和16年日ソ中立条約が締結された。日本は資源を求めて東南アジア侵略を目指した。ヒットラーはソ連の背後を攻めない日本に対して苛立ちと幻滅をあらわにしたそうだ。
その前年、「八紘一字」のスローガンを掲げて軍部も政府も“日中戦争は聖戦である”としていた。これに対して、斎藤隆夫議員は衆議院で反軍演説を行った。すると国会議員達は彼を除名した。そして新聞も国民も彼を非国民として攻撃した。
戦後、国会議員は戦争の責任を軍部に押し付けて政界に続々と戻って来た。報道機関の中には、官権による機関・言論の弾圧のせいとして、自らの責任を転化し、その社名を変えることもなく発刊している新聞社もある。
最近、郵政民営化法に反対した国会議員達は選挙後、その舌の根もかわかぬうちに、次々と賛成派に変わり、復党をはたした。
昭和16年12月海軍は真珠湾を攻撃し、陸軍はマレー半島に上陸した。陸軍は地上戦が主であるが独自の航空兵力も持っていた。その代表的なものをあげる。


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一式戦闘機「隼」(キ−43):オスカー1型

一式戦闘機「隼」(キ−43):オスカー1型

乗員/1名 エンジン/九九式950HP(ハ−25) 空冷式複列星型14気筒プロペラ/金属製定速2翅、直径2.90m 寸法/全幅11.437m、全長8.832m 全備重量/2.043kg 最大速度/491km/時 航続距離/1,146km 機銃/7.7mm×2 
爆弾/15〜30kg×2

一式とは採用された年が昭和16年皇紀(神武天皇が即位した年を1年)2601年の末尾の1から名付けられた。
加藤建夫中佐率いる「加藤隼戦闘隊」は当時の国民の人気の的となった。昭和19年までに5700機生産され、零戦10000機に次ぐ記録となった。


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一式戦闘機「隼」(キ−43):オスカー2型

一式戦闘機「隼」(キ−43):オスカー2型

乗員/1名 エンジン/二式1,150HP(ハ−115) 空冷式複列星型14気筒プロペラ/金属製定速3翅、直径2.80m 寸法/全幅10.837m、全長8.92m 全備重量/2,642kg 最大速度/515km/時 航続距離/1,620km 機銃/12.7mm×2 爆弾/30〜250kg×2

軽戦闘機で連合軍の戦闘機に対して武装の弱さは致命的であった。


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二式戦闘機「鐘馗」(キ−44):トージョー

二式戦闘機「鐘馗」(キ−44):トージョー

乗員/1名 エンジン/一〇〇式1.250HP(ハ−41) 空冷式複列星型14気筒プロペラ/金属製定速3翅、直径2.95m 寸法/全幅9.45m、全長8.85m 全備重量/2.571kg 最大速度/580km/時 航続距離/926km 機銃/7.7mm×2 12.7mm×2

大型のエンジンを使用したため、着陸速度が大きいなど軽戦闘機になれたパイロットからは不評だった。約1200機が生産された。


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二式複座戦闘機「屠竜」(キ−45):ニック

二式複座戦闘機「屠竜」(キ−45):ニック

乗員/2名 エンジン/一〇〇式ハ−102空冷式複列星型14気筒1050HP プロペラ/定速可変ピッチ3翅、直径2.95m 寸法/全幅15.02m、全長10.60m 全備重量/5,276kg 最大速度/517km/時 機銃/前方固定37mm砲×1 下部固定20mm砲×1 上向20mm砲×2 後方旋回7.9mm砲×1 爆弾/250kg×2

龍の殺し屋と名付けられたこの戦闘機はビルマ・中国に配置された。戦争末期にはB−29攻撃に活躍した。


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三式戦闘機「飛燕」(キ−61):トニー

三式戦闘機「飛燕」(キ−61):トニー

乗員/1名 エンジン/ハ−40液冷式倒立V型12気筒1.100HP プロペラ/定速ピッチ3翅、直径3.00m 寸法/全幅12.00m、全長8.74m 全備重量/2.950〜3.250kg 最大速度/592km/時 航続距離/600〜1.100km 機銃/12.7mm×2(機首)、12.7mm×2(主翼)

日本唯一の液冷エンジン(ドイツのDB60/Aエンジンのライセンス生産)を採用した。しかし、そのエンジンが不調のため目立った戦果は残せなかった。


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四式戦闘機「疾風」(キ−84):フランク

四式戦闘機「疾風」(キ−84):フランク

乗員/1名 エンジン/ハ−45−2(NK9H)空冷式複列星型18気筒1,860HP プロペラ/ぺ32電気定速ピッチ4翅、直径3.05m 寸法/全幅11.30m、全長9.74m 全備重量/3,750kg 最大速度/624km/時 航続距離/1,745〜2,500km 機銃/20mm×2(主翼)、12.7mm砲×2(機首上) 爆弾/250kg×2


中島飛行機がもてる技術の全てを注ぎ込んで開発した戦闘機だった。多大な期待とともに3488機を生産した。

日本陸軍と海軍は官僚社会で縦割行政だった。その結果両軍が協同で作戦行動をとることは珍しかった。そして、ガソリンの配分さえ、海軍の分、陸軍の分と争っていた。一方、連合軍は太平洋戦線ではマッカーサーが米国の陸海軍だけではなく、英国、オーストラリア、インド等の軍隊を指揮下に置いた。ヨーロッパ戦線ではアイゼンハワーが米国・英国・フランス・オランダ・ポーランド等の軍隊やレジスタンスも指揮下に置いてドイツ軍に対抗した。
日本陸軍は東南アジア、南太平洋の島々に兵を配置した。しかし、その補給路を連合軍に絶たれた。食料も弾薬も燃料も尽き、兵士達は飢えと赤痢・マラリア等の病気で、戦う前に倒れた。残った兵士達で突撃を決行したが、連合軍の機関銃の十字射撃で命が絶たれた。大本営から「玉砕」と発表された。玉砕とは中国の古事にある「男は瓦になって終わるよりも、むしろ玉となって砕けた方が良い」という一節が語源である。「全滅」では国民心理に与える影響が大きいと判断したのだろう。
陸軍航空隊の戦闘機(隼、鐘馗、屠竜、飛燕、疾風)は、当初、英国軍のハリケーン、米国軍のブリスター・バッファローと対戦し、大きな戦果をあげた。しかし、次々と新しい技術が導入されて開発した米国の戦闘機に歯が立たなくなった。そして加藤隼戦闘隊も昭和17年5月22日基地に襲来したブリストル・ブレニム爆撃機を追撃するものの、遂に帰還せず・・・・・・・。


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